「お前の知識は俺のもの〜認知的分業とはなにか 書評“知ってるつもり 無知の科学”」
とある日、私の手元にAmazonから書籍が届いた。
「はて? なにを買ったのやら」と自分のことなのにすっかり忘れて届いたのが「知ってるつもり 無知の科学」、本書だった。
さて、私はとある日にAmazonのサイトでコレをポチり、それが届いたわけであるが、果たしてこれがどうなって届いたのか、「本当」に理解できているのだろうか?
便利になりGoogle様に聞けばなんでも答えが出てきて、「もはや知識を頭にいれる必要はなくなった」として「知識に意味はない。思考こそが命」という論まで出てくるが、はてさて、私達は本当になんでも知っているのだろうか?
本書が述べているのは3つ。
・知ってるつもりはよく知らない:無自覚な知ったかである
・自分の判断は、コミュニティに依存する
・知識量は判断に影響を与えない
ではのべようか!!!
無自覚な知ったか 知ってるつもりがよく知らない
さて本書の初めには、多くに人々は自転車野チェーンをうまくかけず水洗トイレの水がどのように流れるかもわからない、というのが明らかになる。
簡単な自転車のチェーンの図を描こうとしても、はて、と思ってしまうのではないだろうか。
チェーンでもそうなのだから、自転車を図解してくれ、とか言われたら、ぐぬぬ、と思ってしまうだろう。
絵心ない芸人を笑ってみながらも、自分自身でちゃんとかける人はおもったよりも少ないだろう。
そうそう、そうだよね、と思うかもしれない。
しかし、実際に書くまでは人のことを笑っていられるのは
それはつまり、実際に描こうとするまでは自分自身どの程度できるのかを、うまく理解していないからだ。
自分が思っているよりもものを知らないということを本書では「知識深度の錯覚」と言うふうに述べられている。
絵心については技術的な側面も関わってくるが、知識という無形の物事についての理解度、と言う点でも人は自分を過大評価しているという。
本書ではある物事について、どの程度自分が理解していると思うか? を評価した後にその物事についての説明をしてもらい、そのご再度、どの程度理解しているか、を評価する、というテストを行ったところ、説明を挟んだ後では理解度を低くする、という結果になった。
説明をすることで、自分が実際には思ったよりもその物事を理解できていない、と「説明すること」で初めて自覚できたということだ。
自分の判断は、コミュニティに依存する
思ったよりも自分はものを知らずに賢くないらしい、という結論は、面白くもあるがとはいえ、そこまで衝撃的ではないだろう(他人のことについては)
アメリカ人では過半数以上が自分は平均よりもデキるとおもっているというデータがなんかあった気がするが、自分を評価しがち、そして他者を低くみがちというのはちょっとうがった見方をすれば、心理学的にありそうだ。
しかし、本書ではさらにそこを深掘り、人は他人・コミュニティの知識を自分の理解度として無自覚に取り込むということが述べられている。
これは、これはこういうものです、という説明をうけるよりも、〇〇がこういっていた、という説明を受けた場合のほうが、「説明の理解度が深まる(と錯覚する)」という。
これは〇〇が権威者だから、というわけではない。信じる・信じないということではなく、自分がその物事を理解したかどうか、の判断基準がかわるだ。
本書では自分が信頼を置く人が理解している=自分の範囲内に理解している人がいる、という認識を持つと、その物事に対する理解度を高く評価する傾向が出るという。
つまりは「だれかが説明できるなら、俺が知っているのと同義だろう」
と無自覚に思うらしいのだ。
これを本書では「認知的分業」と呼んでいる。
複雑化する世界において全てを把握できないため、それ自体は悪いことではない。
しかし、さらに進み、人の主義主張は、その知識ではなく、コミュニティの影響をうけるという。
知識量は判断に影響を与えない
誤った見解や、偏った主張。論拠に乏しい考えは、知識不足からくるものと思われがちだ。
これはギャップモデルという考え方らしいが、単に正しい知識に触れさせるなどを行うだけでは、その人(人々)の主張・主義には影響を与えられない、とのこと。
では、判断はなにに依拠するのか? それはその人が接するコミュニティ・集団の判断だった。
それが知識量よりも最も判断や考えに影響を与えるという。
なんと、合理的な判断を下すときでさえ、データよりも集団が重大な影響を与えるという。
いや、一人や二人は知識に触れるきっかけで考えを変えることになるかもしれないが、多く人にとっては、集団やその志向こそがもっとも大切なのだという。
集団知性を生むこともあれば、衆愚にもなる、というのはこういうことなのだろう。
どうすればいいのか? 無知の知
人が所属する集団にもっとも影響を受けるとするならば、なにをすれば論拠にに基づいた思考や判断ができるのだろう。
正しい知識に基づく判断は、どうやったらできるのか?
本書では一つ、何かに対して、説明をする、というのをあげてる。
最初で述べているように、説明しようとするとじぶんじしんがそのことを思ったよりも知らない、というのが明らかになる。それが糸口になる。
人が誤った判断をするのは、知らないからではなく、知っていると思っているからなのだ。
知っていると、理解しているとおもうから、声高らかに主張することができるのだ。
そして、主張に正しさは必要ない。
自分で説明をする際のポイントは、それはどういうことか、という説明をさせることらしい。
この際にどうしてそういうふうになったのか、などの論拠を聞くと、いまそう思っている感情に対しての説明を思い出し、誤った考えが助長されるという。
本書の中でのべられているが、「自分の考えに欠落があると知っておくのが大事」なのだろう。
他人に対してわかっていない、と思ったとき、わかっていないのは自分かもしれない。
そう思わせてくれる。
最後まで読んでくれて thank you !です。感想つきでシェアをして頂けたら一番嬉しいです。Nazy