オタク長文、これさえ意識しとけばそれっぽくなる大全
んなわけはない。
文章が上手くなることに、近道もコツも存在しない。
ただ、たくさん読んで、たくさん書く。
そうしている間に、だんだんと勘が身についてくる。
だが、同時にある程度、理論化もできる。
理論化というと、むずかしく聞こえるかもしれない。
そんなことはない。
ただ、文章を書く際に、意識すべきことを整理するだけだ。
その前に、大目的を確認しよう。
すなわち、どういう文章を書きたいか、だ。
夏目漱石のように文学性あふれるテキストが書きたい人は、ここでブラウザバックを推奨する。
僕にはそんなものは書けないし、書けたらとっくに芥川賞を獲っている。
僕たちがゴールとするのは、読みやすい文章だ。
もっといえば、ひとつの記事を最後まで読んでもらえるようなテキストだ。
インターネットの世界では、人びとは、ありとあらゆることを1秒たらずで判断している。
大量に流れてくるニュース記事から、どれを読むか読まないかを瞬時に判断する。
そう、見出しというテキストによってだ。
この段階で、競争率はべらぼうに高い。
そのなかから、奇跡的にあなたのページを開いてもらったとする。
しかし、残念ながら、ほとんどの読者はラストに到達するまえに、興味を失う。
なぜなら、あなたの文章が読みづらいからだ。
なにを書いているのかがわからない。
一文が長い。くどい。興味がわかない。新鮮ではない。そもそもつまらない。ギャグがすべっている。思い込みが強すぎてキモい。
…………すまない、これはすべて僕がいわれたことがある言葉だった。
と、とにかく、読者は常に読まない理由を探しているのだ。
僕たちは、そこを突破して、自分のテキストを読ませなくてはならない。
と書くと、こういう反論がかならず聞こえてくる。
べつに自己満足で書いているから、読んでもらわなくていい。
そんなことをいう君には、読者ホスピタリティの鬼・宮部みゆき先生の本で後頭部に殴打をお見舞いしよう。とびっきり分厚いやつだ。
その言葉は端的に嘘である。
もしくは、強がりである。
ありとあらゆるテキストは、読者がいてこそ成立する。
読まれることによって、はじめて命を吹き込まれるのだ。
書き手もおなじである。
誰にも読んでもらえない、誰からも反応をもらえない。
そういう状況がつづくと、しだいに書くモチベーションは下がってくる。
だから、僕たちは読者の反応がもらえるように、おもしろかったといってもらえるように、書く必要があるのだ。
俺は読む専門だから無関係と鼻くそをほじっている、そこの君。
これは、君にも関係があることだ。
もし、君がネットでおもしろい書き手と出会ったとする。
ブログを、ツイートを、オタク長文を、楽しみにしていたとする。
ならば、どうか反応を返してあげてほしい。
いいね、だけでもいい。
反応がないかぎり、書き手は君のことが見えない。
見えないのは、いないも同然なのだ。
ということで、僕たちは、読者に読んでもらえるテキスト――読みやすい文章を書いていくことにした。
だが、「読みやすい」とはそもそもなんだろうか。
多くの人たちは、簡単な言葉で書けば、読みやすくなると思っている。
そうではない。それだけでは不十分だ。
たしかに、簡単な言葉で書くことは、読みやすい文章の条件のひとつだ。
しかし、それだけでは、文章は読みやすくなってくれない。
先に結論をだしてしまおう。
読みやすい文章の条件はこうだ。
・簡易な言葉使い
・一文が短い。
・目的が最初に提示されている
・読者の思考を先回りしている、あるいは寄り添っている
・謎がある
・だから先が気になる
ひとつずつ見ていこう。
・簡易な言葉使い
おなじ言葉の連発はよくないから、類語辞典を引いて似た言葉を使え。
たまにこういう、アドバイスがある。
僕からすれば、愚の骨頂である。
辞書からこしらえた自分のものになっていない単語ほど読むに堪えないものはない。
なんというか、無理してる感がハンパじゃないのだ。
言葉に踊らされているといってもいい。
それなら、おなじ言葉の連発のほうが、よっぽどましである。
「十津川警部シリーズ」の西村京太郎なんて、「~といった」ばっかりだぞ。
だけど、死ぬほど読みやすい。
これでいいのである。
くり返すが、僕たちは高尚な文学をやろうとしているわけではない。
自分の身の丈にあった語彙を使うべきだ。
「簡易な言葉」とは、自分にとって簡易であることを忘れてはならない。
逆に、自分がしっかりと腹オチさえしていえれば、少々難解な語彙を使用したとしても、意外に読者はついてきてくれる。
文体もおなじである。
僕は書きやすいので「だ・である」調だが、「です・ます」調でもかまわない。
僕の場合、「です・ます」で書いたら、気持ちわるい体操のお兄さんみたいになった。
だから、現在のえらそうな文体に統一している。
・一文が短い
いちばん手っ取り早く、文章力をあげるためには、まずこれを意識すべきだろう。
ここには、あまり文章を書き慣れていない人が、陥りがちな罠がある。
文章の読みづらい人のほとんどは、一文が長い。
とにかく長い。だらだらだらだらと読点(、)がつづく文章を書いてしまいがちだ。
例をだしてみよう。
これからふたつのテキストを掲示する。
どちらが読みやすいだろうか?
例①
いよいよ入場が開始されて、オタクの群れが集まることにより、会場には静かな熱気が渦巻いている。
席に着き、ペンライトやタオルを準備をしながら、そわそわしていたが、落ち着かないので、電波の入りがわるいスマートフォンを取り出し、ツイッターを眺めていた。
そうこうしているうちに、客電が消灯し、客入れのSEも止まり、オタクがどよめき、期待感は興奮へと膨張し、やがて爆発する。
さあ、水樹奈々ライブのはじまりだ
例➁
いよいよ入場が開始される。
集まるオタクの群れ。ここには、静かな熱気が渦巻いている。
席に着き、ペンライトやタオルを準備する。
そわそわする。電波の入りがわるいスマートフォンを取り出し、ツイッターを眺める。
そうこうしているうちに、客電が消灯。客入れのSEも止まる。どよめくオタク。期待感は、興奮へと膨張し、やがて爆発する。
さあ、水樹奈々ライブのはじまりだ
どうだろうか?
かなり極端に文章を長くしたので、一目瞭然かと思う。
例➁は実際に、僕がべつの記事で書いたテキストだ。
自分でいうのもなんだが、なかなかにスピーディな描写だと思う。
「集まるオタクの群れ。」「客入れのSEも止まる。」など、一文がかなり短いことがわかってもらえるはずだ。
そうすることによって、勝手にスピード感がでる。
自然と、読者も読み進めてくれるはずだ。
これだけで、だいぶそれっぽい文章になるはずである。
といっても、一文を短くしようとしても、ついつい長くなってしまう。
それを回避するコツがある。
ひとつの文に伝えることはひとつまで。
これを意識すると、いいだろう。
文章というのは、だいたいが主語・述語で構成されている。
厳密な話をするとややこしいので、めちゃくちゃ乱暴に定義する。
「誰が」が主語で、「何をした」が述語である。
「水樹奈々が東京ドームで歌った」ならば、「水樹奈々」が主語で、「歌った」が述語だ。
この1セットが伝えることである。
ほかに、場所・時間・状況などのべつの伝えることが折り重なってくる。
これらは、主語・述語を補う要素である。
先ほどの文章でいえば、「東京ドームで」がそれにあたる。
こうやって、文章はできている。
しかし、伝えることが一文のなかに多すぎると、途端に読点が増える。
そうなると、一文は長くなる。
だから、わけるのだ。
「水樹奈々が歌った。」「東京ドームで。」
これでいいのである。
たしかに極端な例かもしれない。
けれど、一文が長くなった場合は、こんな感じで区切っていくといい。
それでも長くなってしまう人は、スマートフォンで書いてみるといい。
スマホの小さな画面では、長い一文を書くのは大変だ。
自然に、一文が短くなるはずである。
最後に例題をだしてみよう。
以下の文章を、伝えること単位で区切って、読みやすくしてほしい。
ただ、読みやすいならば、ひとつの文章に複数の伝えることがあってもかまわない。
「僕は東京ドームで雨に打たれながら、死にそうな気持ちで、物販に5時間ならんだが、お目当てのグッズは売り切れていたので、残念な気持ちで、ホテルに帰った」
思いの外、長くなってしまった。
このつづきはまた今度。
(続く)
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