否定への恐怖と自己理解の開示

先日、卒業した大学から定期送付の会報が届きました。

現在大学で行われている催しや、今後の展望などが記されてあって、読んでいてとても興味深く感じました。

私は卒業した大学に通っていたことをとても誇りに思うし、やっぱりもう少し身を入れてあのすばらしい環境で、そのときにしかできなかったことを精一杯行いたかったと後悔するのです。

そしてその日はなぜか、なぜ精一杯できなかったのかを考えました。どうすればよかったのかを考えた。それは後悔を深める行為ではなくて、今後の自分が同じ後悔をしないための考えの整理だったのでしょう。

いちばんの原因は、心を閉ざしていたことです。

世界のいろいろなものに懐疑的だったし、自分のことについていろいろ言われるのがいやだった。それは今も近いものがある。ただ今は、なぜ自分がそう思ってしまうのか、以前よりも距離を置いて冷静に考えられるようになったと思います。

なぜ心を閉ざしていたのか。それが、今回のタイトルにある、「否定への恐怖と自己理解の開示」と大きく関わっています。

とにかく、できるかぎり人間と接触したくなかった、というのが、当時の私の行動原理でした。当時の気持ちとしては、人間は面倒臭い。本当に信頼できる人とだけ繋がっていればいい、そんな感じでした。それは当時の最良の方法で、うまくいっていて、いい思い出もたくさんできたからよかったんです。そして今は、人間は面倒臭いけど、うまい法則を見つけられれば、適切な距離でいろいろな人と接することができるかもしれない、そうすれば発見できることも膨大に増えるし、信頼できる人を増やしていけるかもしれない、と思っているように感じます。


そして、その今の私の感じている、人間関係に対する新たな感覚で、今までに見たことのない世界を見て見たい、と思っているけれど、そこでまだ私の足かせとなっているのが、「否定への恐怖と自己理解の開示」だなと、大学時代の自分を振り返って、明確に思ったのです。


私はとにかく人にとやかく言われるのがいやだった。そんなにいやだったのかと自分でも知らなかったけれどいやだったみたい。例えばこの文章を書いて公開しているけれど、そこに「文が下手、稚拙、意味がわからない、そんなもの公開するな」とか言われたら、一撃ノックアウトで立ち直れない。そのくらいだった。うーん、今これ言われたらもう少し冷静に分析ができるなとも思う。そのような否定的な意見があったときに、それを書いた方の心情や状況を客観的に把握して、こういった文章のような内面的な内容がお好きでない方(内面の状況のために変に刺激を受けてしまう状態の方)やなんでもかんでもとにかく文句をつけたがる方もいらっしゃることは分かるし、でもそういった方の意見を真摯に受け止める必要があるかといえば、そこには熟考が必要だと思う。もちろんそれを煽い合うことはあまり建設的とは言えない。冷静な距離が生まれている状態なら、その状況は回避できると私は信じるようになってきたので、私の存在に対して否定的な意見が飛んできても、「なぜ、その人はそう思うのだろうか。なぜ、私にそう言っているのだろうか。SOSか、私の試練か。」みたいに考える一間が、以前よりかは出てきた気がします。「否定的なこと言われた!かなしい!私はもうダメだ!」となってしまう前に。


それ以前に、なぜ否定的なことを言われたら、「かなしい!私はもうダメだ!」と思ってしまうのかというと、これもいろいろなところで言われていることですが、この土地の文化圏特有の集団意識と、私自身の自己肯定感の低さが挙げられます。


私の感じてきた集団意識。例えば私が暮らしてきたこの日本のはしっこの閉鎖された土地で、なぜか多くの人が「私たちはみな同じ」みたいな感覚を持っているように感じ、「違う人は排除」みたいな考え方の傾向があったように思います。今はだいぶ薄れましたが、私が幼かった頃はそのような意識の大人、そしてそれに影響された子どもが多かったように感じます。今の私の浅い知識でいえば、農耕民族集団意識と江戸時代の五人組みたいな制度でできてしまった意識のような気がします。「何か(暗黙のルール、共通認識と)違うこと、間違っていることをした人は排除」みたいな。そして私の中にも同じく、「排除されたら生き残れない」というシビアな感覚があったのを覚えています。それもなぜ?と問うと、理由はよくわかりません。卑近なところで言えば、もしその集団から排除されたら、生きていくための資源を分配してもらえない、ゆえに生きていくことが困難、みたいな感覚があったのかもしれません。そして、排除されないようなんとかすがりついていましたし、それと相反して、排除という現象が大嫌いになりました。更に言えば、私の生命に根深く残ってしまったその感覚、大嫌いと言っておきながら、自分がその行動をしてしまっているのです。


排除と否定感は、私の中で結びついてしまっていました。人から否定的なことを言われたら、排除される。私は生き残れない。そんな恐怖です。もちろんそれは繋がる感覚が建設的かはわかりません。ですが、自分の力ではどうすることもできないことの多い幼い頃に身についた感覚は、結構根深く私の意識を左右します。私も歳を重ねて多くのものを見てきて、やっと、万が一排除されても自分はなんとか生き残っていけるだろう、どこか受け入れてくれる場所が必ずあると信じられるようになりました。その安心感が、排除や否定感に対して冷静な見方をさせてくれるのです。今やっと、自分の認知矯正がはじまった、って感じです。

その集団で排除されても、そこにいる人の命の尊さを最大限尊重しようと心がけるようになりました。結構キツイです苦笑。排除されそうになったら、排除し返してやりたいという、結局は解決を見ないハンムラビさが出てしまうのです。これでは堂々巡りで、建設的とは言えないので、私はあまりそういう状況になりたくないなあと思います。そして否定されるときも、自分をもう一度客観視して、「そういう風に否定されてしまうような要素があったかな?」と確認します。あったときは直します。これもキツイですが苦笑。もしも要素があまり見受けられない場合には、「あ、この方はそのことで今苦しんでいて、私にそれを伝えることでSOSを出しているんだ」と分かる場合が多いです。残念ながら私はただの一般人ですので、その方の抱えているものを解決できる人間だとは思っていません。もしも私にはどうすることもできないと思ったら、その方と距離をとります。いつかお互いが笑い合えるようになれることを願いながら。


とちょっと良さげなことを書きましたが、内心はやっぱり切羽詰まっています笑。でもこれを乗り越えないと、私は広い場所に行けないので、行って見たいと思うので、認知矯正を続けて見たいなと思っているところです。


更に言えば、先ほども挙げましたが、私の自己肯定感の低さも、否定的なことを言われる恐怖と結びついていました。私は2歳の頃に、親族内でちょっとした事件がありまして、そのせいでしっかりとイヤイヤ期、自己主張期を迎えることができませんでした。自分がどれだけ主張しても、世界は大丈夫。ちゃんと愛してもらえるし愛せる、という確信がないまま、感情を変に抑えて我慢する癖がついてしまいました。これが、自己肯定感の低さと結びつきました。主張ができない、自分はする権利がない、主張して否定されたら、自分は存在しちゃいけない。3歳頃にそのように思っていたことを覚えています。最近になって自分の自己肯定感の低さがそこからきていることを確信しましたので、その当時の気持ちや出来事を両親としっかり話しました。そしたら、本当に楽になりました。いわゆるインナーチャイルド療法です。私の場合はありがたいことに親が健在でしたので、ことがスムーズでした。もちろんカウンセリングなどでも効果はあると思います。


そんなわけで、否定(排除)への恐怖、に関する大きな2つのファクターに対して、集団意識の排除は私の生命に影響を与えないという新しい認識を持つこと、また幼少期の自己確立時の不安な気持ちを解消することで、今までの自分の姿勢が変化して、良い認知矯正ができるのではないかと思っています。これがうまく行けば、大学当時に抱えていた「心を閉ざした状態」を少し解消していけるのかなと思って、その後に起こることに対して、わくわくしています。


そこにもう一つ考えたいことは、自己理解の開示です。

上記のような否定への恐怖から、自己開示がうまくいかなくなってしまうことは想像に難くありません。もし自分のそのままを出して否定されたら、否定が排除や生命の危機といた感覚に結びついていた私はパニックを起こしていたでしょう。付け加えていうのであれば、私のMBTIタイプはINFP(参照:https://note.mu/nanashinosumiko/n/ned55f0b82306)で、HSPの気もありますので、パニックを引き起こしやすいタイプと言えます。ですので、自己開示がうまくできませんでした。いえ、していたつもりだったのですが、本来の自己を開示していたわけではありませんでした。社会的集団的に受け入れられるであろう人形的な自分を構築し、それを開示することで、自分は自己開示できた、社会的にも繋がれたと感じたかったし感じていたのだとは今は思います。今はその人形も必要な際にしか使用せず、本来の自分の開示もしたいなと思ったときに、うまくできないことをひしひしと感じています。また、開示していなかったせいもあり、自己理解も疎かです。かつて自分だと思っていた自分は、社会的に良く見せるようの人形的な自分だったので、本来の自分のことがよくわかりません。最近は非言語的になんとなく「あ、これが、自分かも」的なものを感じているのですが、言語化するには時間がかかるように思います。

ちなみにこの文章にする行為は、人形であった自分が習得したもので、それを今は自己整理のために使わせてもらっているという感じでしょうか。


ですので、これから無理せずに、でももっといろんな方に触れてみたいと思う私は、自己理解とその開示をしていきたいなと思っています。本当はしなくてもいいんです。しなくても分かり合えるもので我々は構成されていると思うので、必要ないんですけど、現代社会という閉塞的な環境下において、その閉塞感を開放感に変えて遊び尽くすために、今私がしたほうがいいなと思うことは、自己理解とその開示だと思っています。その感覚が集団意識の中で並列化されてくれば、自己理解とその開示をします!!なんて意気込まなくても、自然とできてしまう環境ができると思うので。私が幼い頃にそのような環境だったらよかったな〜なんて。でも今の私はここに存在するこれなので、そこからはじまれば、何の問題もありません。


そんなわけで、大学から来た通知から、その当時の閉塞感、そしてそれを引きずっている今ですがやっとそれを乗り越えて新しい世界が見えそうだと思っている感覚をお話ししました。


思うがままに書いたので、まとまっていなくて申し訳ないですが、文章を書きながら、私には新しい世界の感覚が強く湧き起こってきましたので、とてもよかったと思います、という自己満足で終わる今回でした。笑

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