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人類が皆兄弟になったらどうすっぺ?

間違えて妹のお箸を使ってしまった。でも、まっ、いっか。

とそこで、妹に「なんで私の箸を使うのよ、汚らわしい」

なんてことを言われた方が、日本人の33人のうち1人いると言われています(自分調べ)。

他人の口の中にある菌などが移るからでしょう。ゆえに、箸は自分のものにしておきたいのかなと思います。しかし、妹は彼氏と口づけを交わすでしょうし、そのあとに入念にうがいとアルコール消毒するなんてことは、コロナ禍でも、まあないと思います。

モノに執着があるのだと思います。逆に欧米等では自分の箸、というよりマイスプーンやフォークなんてものは存在しません。共有物なのです。念のため、英国とアメリカ人に確認してみました。

考えてみれば、ファミレスでも箸は洗ってはいるものの、共有で使用していますよね。これってなんなんでしょう。

モノはその人の一部であるという考えが、昔の日本にはあったようです。だから、他人が自分の箸を使うということは、自分の身体を凌辱されたような感覚がするのだと思います。そして、そうした我が国古来の習俗が現代まで、一部に残っているのだなと思っています。

私はクルマが好きで、自分でクルマを持っています。最近ではエニカのように他人に貸すサービスも登場してきていますが、抵抗はあります。しかしそれは自分の身体の一部というより、どういう運転をされるかわからないという要素が主であり、クルマをバカ息子を溺愛する母親のように甘えさせているのかもしれません。ちなみに、業深いことに、所有するだけでは飽き足らず、カーシェアリングもよく利用していて、こちらはそもそも身体の一部がどうのこうのという感情は湧き出てこないですよね。

さて、シェアリングが今後とも進むかと思いますが、人間には所有欲というものもあります。モノではなく、人間に対しても抱きますよね。「まどかは俺のモノだ」みたいな(笑)

まあ、人間そのものがシェアリング社会に組み込まれるとは、いますぐには実現はされないですが、将来的な可能性はありますよね。

そして、父親や母親さえも、生物学的なつながりこそあれど、もしかしたら、家族というつながりを超えて、生んでくれた両親はシェアリング社会の中で、自分の親父・おふくろという関係に限定されなくなる可能性もあります。

まさに人類皆兄弟の時代の到来です(笑)そうなった場合に人間は案外に適応していくと私は考えていますが、どうなることでしょう。

特定の人に対する恋愛感情というものも無くなるかもしれませんね。まさにすべての人に対する愛で満たされてしまう社会になる可能性もあります。

遅くは戦後の昭和30年代までは、わが国には夜這いなどの風習がありました。これをシェアリングと呼ぶのは少し違うと思いますし、民俗的意味があるのだと思いますが。むろん、家族制度は古くからありましたが、存外に日本人は自由奔放に男女混交をしていたというのが実情でした。

例が男女になってしまったのですが、「私は絶対、ひろしと一緒にいる!」と意気盛んな女性が案外とすんなりと先祖返りしてしまうような気もします。

それにしても、ご紹介する赤松啓介さんの本はすごいですよ。本人の実体験が綴られています。初体験が信じられないくらいに早いです(笑)


そうした環境に生きていたとはいえ、敢えていえば、やりたい放題な性生活を送っていたわけです。上記の日本の習俗に即した形で。

氏の体験談がすべて真実とは言えませんが、日本でこうした習俗が長く存在してきたことが、もう忘却されています。

さて、冒頭の「私の箸」のことと絡めますが、箸は自分自身の一部でそこには確かな所有意識があるけれども、殊に性愛に関しては所有意識が希薄であったということに面白みを感じます。

重要なことなので、繰り返しますが、まさに人類皆兄弟の時代の到来です(笑)

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