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散髪中に隣の会話を聞きたくない場合どうする?

ちょっと前に散髪に行った。

3席が横に並ぶ狭めの店。
わたしは真ん中の席に通された。

店内イメージ

「前回と同じ感じでお願いします」と伝えて、理容師さんの準備を待つ。

さっきから右側の若い男性客と理容師の会話が盛り上がっている。

「奴ら窓に5ミリでも隙間があれば侵入してきますからね」

そんな奴がいるのか。恐ろしい。

「最近の奴らは殺虫剤も効かないようになってるみたいですからね」

ゴキブリの話だった。

話を聞くにどうやら右の青年は、
先月この街に引越してきて一人暮らしを始めたらしい。
虫が大の苦手で、一人暮らしで最も恐れていることがゴキブリの出現だそうだ。

わかる、その気持ち。

「昔一回、寝てたらなんか足がくすぐったくて。で、手で払ったらそこにGがいて!!!」

理容師が青年をビビらせている。

隣のわたしまで鳥肌が。

おそろしい。
おぞましい。

というかどうしてそんなハイテンションで話しているのか。

理容師は青年にゴキブリ対策をレクチャーし始めた。

「バルサンを炊くとGが水回りに集まるので逆に不衛生」
「ダンボールはすぐに捨てた方がいい。湿気があってGには快適な住処になる」
「Gが卵をつけるから置き配は本当にやめた方がいい」
※横で聞いただけで真偽は不明です

聞きたくない話。
置き配の荷物に卵が産み付けられてるなんて・・・・・・。
知らないほうが幸せだという物事が世界にはある。まさにこれ。

というかこんなに気持ち悪い話を隣の客に聞かせてしまっている、
という罪悪感はないのだろうか。

「知ってました? 奴らは飛べないんですよ。高いところから低いところに落ちる時に羽を広げて、飛んでるように見えるんです」

そうなのか。知らなかった。

なんだかわたしもゴキブリ助手くらいにはなれてしまいそうだ。

だがそんな肩書ほしくない。

もうこれ以上聞きたくないのだが、理容室というこの空間。
嫌でも隣の会話が耳に入ってくる。
耳をふさぐこともイヤホンをつけることもできないし、
途中で立ち去ることもできない。

わたしは半強制的にゴキブリの話を聞かされる。
カットが終わるまで。

「奴らとの戦いは情報戦だと思ってるので」

ドヤ顔で理容師は言う。いや、ゴキブリ博士は言う。

今度は何だ。気持ち悪い話はやめてくれ。

「僕、今の家に7-8年住んでるんですけど。最後にGと遭遇したのは4年前ですね」

それは、ゴキブリに関する豊富な知識を身につけて、
置き配をしないほど徹底した対策を実践した成果である。

「それは・・・もう・・・、根絶しましたね・・・」

青年は恍惚として聴き入っている。

「奴らに関することなら、これからなんでも聞いてください」

鏡越しの博士に尊敬の眼差しを送りながら、青年はゆっくりと相づちを打った。

そうして理容師は常連客を獲得した。
散髪が上手いゴキブリ博士として──。

プロならば己の技術で魅せてほしかったところだが、
これもまた彼の生存戦略なのだ。

* * *

博士の講義に夢中になって?いたら、
いつの間にか自分のカットが終わっていた。
会計をして自転車で帰る。

帰宅してゴキブリがいないか真っ先に確認する。
もう家にいるような気がしてならない。
前日置き配したばかりだし!

ゴキブリ助手相当の知識を獲得できたのをポジティブに捉えようと試みたが、やっぱり今日の話は聞きたくなかった。

「理容室で隣の席の会話を聞かずに済む方法なんてあるんだろうか」と考えた結果、一つだけ方法を発見した。

それは「自分も担当の理容師との会話を盛り上げること」だ。

そうすれば隣の席の会話は、自分たちの話し声にかき消されて耳に入らない。

だけどわたしのようなスーパー内向的内弁慶人間には、
散髪中に会話なんてできるはずがない。

理容師が話しかけてくれても、「あ、はい」とか「そうですね〜」みたいな単発の返事しかできず、ラリーにならない。
相手のサーブがボトっボトっと虚しくコートに落ちる。

もはや鏡に映る自分をどんな目で見ればいいかわからず、ずっと伏し目がちなんである。

もしも理容室で席ごとに盛り上がり度を競う世界大会が開催されていたら。
その大会の主催者はこんなことを言うだろう。
”理容室の席の雰囲気は、いわば客と理容師の二人が一体となって創り上げる作品である。
それはまるでジャズのような即興性。
二人は運命をともにするバッテリーなんである。”

だとしたらわたしは最悪な客だ。
足手まといにしかならないゴミ陰キャだ。


でも変わりたいんだ!!!
次回もまた博士のゴキブリ講義を聞いてしまったら。
もう、わたしは。本当に助手に・・・・・・。

第一自分の髪を切ってくれる人に対して、
会話を拒否するような態度は失礼じゃないか。

哲学者の永井玲衣さんは、美容師のことを
「わたしのあり方をともに考えてくれる探究者」だと言っている。

※美容室に哲学が転がっている、というエッセイが非常におもしろかったので引用する。

まず「どうしたいですか?」という問いが哲学的である。
入店すると、不思議な体勢で髪を洗われ、かゆいところは、洗い足りないところは、など質問され、終わったら頭以外を覆うカバーをかぶり、でかい鏡の前に座らされる。おしゃれな美容師さんがやってきて、にっこりと微笑み、わたしに「どうしたいですか?」と優しく聞いてくれる。鏡にうつる腑抜けた自分の顔を見つめながら、わたしは考える。わたしはどうしたいんだろう、どうするべきなんだろう、わたしって何なんだろう。
「どうしたいですか?」という問いは、「どういうあなたでありたいですか?」という問いでもあり、「どういう人生をあなたは送りますか?」という問いでもある。問いはどんどん広がっていき、美容師さんの何気ない質問が「いかに生きるのか?」という根本的な問いにつながっていってしまう。
フリーズしているわたしの隣で、別のお客さんがハキハキと要望を伝えている。「汝自身を知」っている、もしくは知ろうとしているひとなのだ。「友だちにもこうしたらいいよって言われて」という言葉も聞こえてくる。しっかりと他者にヒアリングもしている。えらいなあ。隣の美容師さんは、ふむふむと聞いたあと「この髪質だとこうするのもオススメですよ」などとお客さんと対話を始めた。2人は対話を繰り返し、考えや主張を洗練させ、真理に向かって探究を始めている。美容師さんはわたしのあり方をともに考えてくれる探究者なのだ。
哲学だ。哲学が起きている。

『水中の哲学者たち』

こう考えると、理容師と会話(対話)しないのは損だ。
わたしを知る機会を損失している。

まず「前回と同じ感じでお願いします」をやめよう。
どういう自分でありたいか? を理容師と一緒に探求しよう。

それからそれから、なんの話を続ければいいんだろう。
天気の話とか、かなり抽象的にぼやかした仕事の話とか、芸能ゴシップとかだろうか。
続く会話を考えていると、理容師も「めちゃくちゃ他人でありながら、客を決して傷つけない」存在だと気づいた。
先月書いた店員さんたちと同様に。どうやらわたしはそんな人たちが苦手らしい。

またそんなこと言ってる場合じゃない。

博士の話を聞かないため。そしてわたしを知るために。

とにかく次回髪を切りに行くときに備えて、
ただいま世間話のイメトレの真っ最中だ。

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