見出し画像

自分を喜ばせる余白

ある日の夫との会話。
夫「妻は自分のことを喜ばせることができてすごいね。俺はできないわ。
自分を喜ばせたらよくないと思っちゃう。」
私「いや、やりたいことやったらいいじゃん。」
夫「それができないんだよ。」

夫はいつも、色んなことを考えてはすごいと褒めてくれる。
褒めてもらっても、私は何も考えずに毎日生活していて、夫から言われて気づくことも多い。
今回はこんな感じで、じゃあ何で私はやりたいことをやって自分を喜ばせることができるのか、という問題になった。

***

話は変わるが、うちの子どもたちは、良くも悪くも何も与えられていない。
私たちは、いわゆる昔風の子育てが好きで(叩いたりは絶対しないけど)、ゲームも私は操作方法が良く分からないし、二人ともあまり好きじゃないので買っていない。
電車に乗れば外を眺め、車に乗ってもせいぜい音楽を聴くくらいで動画などは見せていない。
私が車に酔うことがあるので、自分もできるだけ外が見たいというのもある。

子どものお友達には、今風の子育てだな、という子もたくさんいる。
ゲームがあって、ソフトもたくさんあって、テレビで動画配信サイトの動画を選んで見ることができて、テレビではなく動画を見ている。
車ではDVDを見て、電車の中ではゲームをしたり、遊んだりする。

それを否定しようと思ったことはない。
ゲームもありがたく使わせてもらうし、こんな動画があるんだと教えてもらう。
一緒に電車で遊んだりもする。
子育てなんて、どれが正解ということはないのだから、両親がこうだと思ったことをすればいいと思っている。
もちろん私も不安になることはたくさんあるけど、子どもたちにも、誰かの考え方を否定するような人にはなって欲しくない。

***

さて、夫はなぜやりたいことができないのか。
考えていくと、最近子どもたちを見ていて感じていたことと繋がっていた。

何も与えていないからなのか、うちの子どもたちは自分で何かを探すのが上手い。
外を歩いていると、あんな形の雲があるよとか、綺麗な花が咲いてるねとか色々話しかけてくる。
小さな変化によく気づくなぁと感心することも多い。

珍しい形の葉っぱを拾ったり、不思議な虫を見つけたり、ガタガタする舗装で遊んでみたり。
歩くスピードはとても遅いが、まぁ別に急ぐこともないか、と時間がある時は精一杯付き合うことにしている。
電車に乗ってもバスに乗っても、外の景色に珍しい物を見つけてはあーだこーだと話して、あと何個?と駅の数を数えている。
バスの「降りるボタン」を押したがって喧嘩になるのは、見ていて可愛いから好きだ。

家の中でも、一人で遊んだり二人で遊んだり、とにかくずーっと遊んでいてテレビの存在を忘れていることもある。
あまりにもテレビを見ないので、テレビはいいのー?と声をかけそうになることもあるが、私は私で趣味の編み物をしたいので、一人でTverを見て、同じ部屋でそれぞれの時間を過ごしている。
そう、私にも子どもたちにも、暇をする、という時間がないのだ。

***

私の幼少期は荒んでいたので、不可抗力でずっとほったらかされていた。
父親と遊んだ記憶はあるが、母親と遊んだ記憶は全くない。
兄弟はいるけど、ほとんどの時間を一人で遊んで過ごしていたし、ゲームはあったが、そもそも学校以外の時間には習い事が詰め込まれていて、遊ぶ時間もなかった。

夫の幼少期は、専業主婦だった義母がずっと家にいたし、一人息子ということもありとても過保護に育てられたらしい。

つまり、与えられ過ぎることが、自分が興味を持つこと・何に興味があるか、を考え気づくことを阻害したのではないか、というのが私たちの結論だ。

私たちは常々、“余白”を意識した子育てをしようと話している。
親が全てを決めないように、親の価値観を押し付けないように、と話しているが、それが子どもたちの今の自由さに繋がったのだとしたら、と考えると二人でとても嬉しい気持ちになった。

ただし、子育てに正解はない。
この後どう転ぶかは、私たちにも全く分からない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?