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「サンドリヨンの頃」

一葉の記憶―私の公募短歌館―
吉田恭大

公募短歌館に投稿していたのは十六、十七歳の頃。
高校では友人たちと同人誌を出していたけれど、そこで短歌を作っていたのは私だけだったので、人から作品の批評や感想を聞く、ということがほとんど無かった。
とにかく自作を読んでもらう場を探して、鳥取の定有堂書店で『短歌』を買い、投稿を始めた。『短歌』はその隣に並んでいた「短歌研究」より若干価格が安かった。しかも市販の葉書が必要な「短歌研究」と違い、専用葉書が誌面についていたので、投稿へのハードルも若干低かった。

当時は今より短歌を作る若者が少なくて、学校生活や青春を詠んだ歌も公募欄には珍しかった。それで色々な方に取り上げられたのだと思う。

雨の日はいつも一番先に来るサンドリヨンと名付けし少女

『短歌』二〇〇六年十月号・岡井隆選

投稿がコンスタントに載るようになったので、次はどこかの結社に入ってみよう、と当時の私は考えていた。高三の秋、岡山であった文芸部の大会で、短歌部門の選考委員をしていた石川不二子さんにご相談したところ、後日いくつかの結社誌と一緒に丁寧なお手紙をいただいた。そこで鳥取なら池本一郎という先生がいるから、と塔短歌会を勧められ、そのまま塔に入会した。心の花には誘われなかったが、結果的に良かったと思っている。

その後、大学進学を機に上京、早稲田短歌会に入会する。入ってすぐの頃、先輩の平岡直子さんから、岡井隆の歌集に

《灰かぶり姫|サンドリヨン》のなにが面白かったのだらう青年は短歌にした

岡井隆『初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後』

という一首があることを教えてもらった。この青年は君じゃない?と聞かれて、確かに時期的にも、これはわたしのことを詠んだに違いないと思った。
平岡さんに連れて行ってもらって、当時まだ高円寺にあった短歌新聞社まで、直接歌集を買いに行ったのを覚えている。

(さらに後年、未来の新年会に呼ばれたときに、岡井さんにこの歌のことをお伝えすることができた。勿論岡井さんは覚えていなかったけれど……。今思えばこれが岡井隆と直接会話をする、最初で最後の機会となった。)

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高校生の頃の私は、投稿とその選や評を通じて、自分のどのような体験や、どのような感情が短歌足りえるのか、何を詠えば短歌になるのか、おそるおそる反応を探っていたようの思う。青春詠、として自作が言及される度、他の投稿者に比べて人生経験の無い自分は、その少ない人生経験=若さ自体を歌の武器にするしかないのではないか、というような焦燥感も当時は確かにあった。

上京と同時に公募短歌館への投稿は止めた。東京で学生短歌会や結社、超結社、多くの歌会に参加しながら、新人賞への投稿を繰り返すうちにやがて、短歌に詠む「べき」内容はない、自分自身も感情も、何も価値のあるものとして読者に差し出さなくてもいい、と考えるようになった。

十年かけて物心がついて、新人賞の投稿も止めた。それから歌集を作ったので、公募時代の作品は『光と私語』には入っていない。

(角川『短歌』2022年8月号より一部改稿)


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