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急須をかったよ、

これはどこの馬の骨かも知らない一般男性が、急須を生活に取り入れてみた
という文字の羅列である。

私はいつから年越しの高揚感を纏うことをやめたのだろうか。
親戚との会合のため大みそかは家族で遠出をしていて、出先の旅館の離れのペンションで過ごしていた。
食事の間隔がやけに離れている旅館のコース料理を平らげ、部屋に戻ったのが22時。
ベッドの上で読書に耽ろうと思っていた数分前の私ががっかりすること間違いないレベルの寝落ちを披露した。
気付いたら朝。そんな年越しだった。

遠出から帰ってきた翌日に、仲良しの祖母と茨城県笠間市で行われていた焼物のイベントに行ってきた。
生憎の雨。ずぶぬれになりながら祖母の軽快な足取りについていくのが必死だった。
祖母の足取りについていくのをやめてみた私は、
あるお店に陳列されていた、1つの急須に目を奪われてしまった。
そのbodyは急須にしては大きく、ふくよかな丸みを帯びている。
藍色とは表記しつつも、表面の青々しさの奥底にしっかりと暗い闇が覗いてそうな色であった。
これは僕が小学校1年生の時に学年のマドンナに出会った時のあの感覚に近い。
これはなんとしてでも欲しい。
しかし、祖母に甘えすぎている私は財布など持っていない。
あくまでメインは祖母の買い物である、がしかしこの好機は捨てがたい。
悩む私。
今振り返ると1分ほどは急須をじっと見つめていたに違いない。
であるのにお店の人は1つも声をかけてくれなかった。せっかくの客を見過ごすなんて。。。

悩む私は、祖母の声掛けにより現世に舞い戻った。
「それ欲しいの?買ってあげるよ。」
祖母よ、その言葉を待っていた!
しかし、現世に戻った私は少し考えた。
この急須を自宅に導入した際、私は茶葉という固定費をカツカツの生活費に取り込むことになる。
加えてこの急須でなければいけない理由はどこにあるのだろうか。
一目惚れという偶発的かつ突飛な現象を基に私は購入していいのだろうか。
一目惚れの対象を所持しようとしたら運の尽き、その後の結末は古典文学たちや高校生たちの恋愛を見ていれば察しがつくだろう。

「おばあちゃん、すごく素敵な急須だけど今回は大丈夫。この急須高いし。」
一目惚れに手を出したい気持ちの逆の展開を望み行動する者の論拠は常に弱いものだ。
私は一目惚れを背に祖母の買い物荷物を持ち帰宅した。


翌日の正午過ぎ。高校の同級生が懸命に走っている箱根駅伝の声が家に響くなか、祖母が私に言った。
「あんた急須が欲しいんだろう?おばあちゃん、昨日新しい急須買ったから家にある使わない急須あげるから自宅にもっていきな。」
おばあちゃん、
そういうことじゃないんだ。
私は”急須”が欲しいのではない。
”一目惚れしたあの子”が欲しかったのだ。
私は急須という機能に惚れたのではない、”あの子”に惚れたんだ。
”同じサークルの仲いいあの子”とかじゃない、
”一目惚れというフィルターによって美化されたあの子”がいいんだ。
一目惚れというのはそういうものなのだ。

しかしそんな悩む私を知らず祖母はそそくさと使わない急須を梱包し始めた。
”じゃない子”を抱きかかえ私は自宅に帰った。

そして今では毎朝”じゃない子”を愛用している。
amazonでほうじ茶の茶葉を購入し、朝から夜までお世話になっている。

きっと、、、
こういうことなんだろうな。

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