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体育の先生が大っ嫌いだった話

「体育の○○先生が嫌い」ではない。

「体育教師」という存在自体が大っ嫌いだった。

僕は高校時代、

「体育大学は、大卒の資格と引き換えに『人間性』という大切なものを失う場所なんだ」

と、本気で思っていた。

もちろん今となっては、それが完全なる偏見であるということは理解している。
でも、当時は身近にいる体育大学卒の人なんて、体育教師くらいしかいなかったので、本気でそう思っていたのだった。
※体育教師がみんな体育大学卒ではないことも、今はちゃんと知っている。

今現在はどのような状況になっているのかはわからないが、僕が通っていた高校では、体育教師は職員室にはおらず、体育館に併設されている「体育教官室」という部屋で過ごしていた。

クラスで体育の当番(点呼とか準備とかをやる係)が日直みたいに順番で回ってくることになっ ており、当番は休み時間のうちに、体育教官室に行って体育教師から指示を受けるという決まりになっていた。

この体育教官室に行くのが、ものすごく憂鬱なのだ。

ここに入室するときには、

「○年○組の△△です!□□先生に用があって来ました!」

と、大声で言う決まりになっており、声が小さいとやり直しを命じられる。

そして、大きな声を出していたとしても、特に返事があるわけでもない。
「どうぞー」とか、「はーい」とか、なんでもいいから返事をしてくれればいいのに、
体育教師たちは無視をしやがる。

我々生徒は、無視を入室許可の合図と受け取り、いそいそと先生のところに近づいて行って、 「今日はこういう準備をしろ」というような指示を受けるのだった。

これは、極めて不可思議な現象である。

生徒たちの挨拶が小さいと、

「聞こえない!やり直し!」

とか言うくせに、自分たちは当然のように無視をするのである。

授業の開始時や終了時など、とにかくデカい声で挨拶をさせて、体育館やグラウンドにまで挨拶させていたくせに、自分たちはナチュラルに生徒のことを無視するのである。

序列でいうと
体育館やグラウンド>生徒
ということになってしまう。

もう、体育教師の倫理観が大きく歪んでいるか、丸ごと欠如しているとしか思えなかった。

授業開始時の挨拶だって、

生徒「おねがいしまーす!」
教師「聞こえない!この時間ずっと挨拶になってもいいのか!もう一回!」
生徒「おねがいしまーす!(最初とほとんど同じ声量)」
先生「できるじゃないか!最初からやれ!」

こんな調子だ。
何なんだこのやりとりは。

もう、生徒を支配するためだけにやる茶番である。

  • 大きな声を出す

  • 大きな声を出させる

  • 罰をちらつかせる

  • 不安や恐怖を感じさせることで主従関係を示す……

人を統率するために取る手段が、いちいち下品なのだ。

そして、こんなに過剰なほど生徒を抑圧・支配するくせに、
本当に怒らなくてはいけないような肝心なところでは、その持ち前の支配力を全く発揮しない
のである。

例えば、球技の授業などで、
“部活に入っている生徒が、未経験の文化系生徒にイキる”という「体育あるある」
が発生した時だ。

このあるあるは、特にバスケやサッカーの授業で顕著に見られるもので、「得意なスポーツを披露できる」という状況を前にしてアドレナリンの過剰分泌に陥った生徒が、未経験の文化系生徒に対して

「ディフェンス!ディフェンスつけよお前!」
「マイボマイボ!」

と叱責したり、威圧したりするような現象だ。

文化系生徒は邪険に扱われ、パスすら出してもらえない。
仮に出してもらえたとしても、うまくできずに怒られるので、やがて

「もうパス出してくれなくていいよ。むしろ出さないでくれ」

と、萎縮してしまうのだ。

毎日やっている人が、やっていない人よりもうまいのは当たり前であり、それで上から目線になるのは間違っている。

体育教師は、これを教えなくてはならないし、しっかりと注意しなくてはならないはずだ。

それに、今まさに、生徒間で「間違った上下関係」が形成されているのだ。
それをとがめてまっすく育てるのが、教師の役割だろう。

で、あるにも関わらず、体育教師はまったく注意しない。
それどころか、

「元気がよくて何よりだ」 

みたいな顔で見ていやがる。
逆に、文化系生徒に

「ほらー、もっと積極的に行けー」

と声をかけるのだ。
※しかも文化系生徒の成績をしっかりと低くつける。

こういうことの積み重ねで、運動が嫌いになった人を僕はたくさん知っている。

そのような人が、中年になってから健康のためにやむを得ずスポーツクラブに通い始めて、

「体を動かすのってこんなに楽しかったんだ」

と、知ることもあるという。

まさに、学校での教育が失敗し、若い芽を摘み取っているという証拠である。

体を動かすということ自体は、面倒なことでもなければ、つらいことでもない。

適度な運動は心身の安定・強化にもつながるため、老若男女問わず習慣にした方がいいことなのだ。

そういった本質を教えることを疎かにし、上下関係や、集団としての統率のみを過度に重視し、
運動=憂鬱
というイメージだけを植え付ける。

僕が学生時代に出会った体育教師は、そんな人ばかりだったのだ。

そして残念ながら、学校以外の一般社会においても、このようなステレオタイプの体育教師みたいな人や、体育の授業でイキっていた側の人が高評価を受け、 会社の上席に就いていることがまだまだ多い。

彼らは、自分と同じような人材を好むため、周りをイエスマンで固めがちだ。
そのため、価値観をアップデートさせる機会がないまま、現在に至るまで時代錯誤の体制を敷き続ける。

“自分よりできない人や弱そうな人は邪険に扱ってもいい”
その誤った考えを正されることなく上席になっていった彼らは、今日もメンタル不調者を生み続けるわけである。

日本が他の国に比べて全く成長せず、先進国からも脱落してしまった理由のほぼすべてが、ここに集約されているのではないだろうか。

もしかしたら、小さな島国である日本が先進国になれたのは、上下関係や精神論を重視し、集団を維持するために個々の自己犠牲を強いてきたからこそなのかもしれない。

でも、今はそれが足かせとなって、逆に成長を阻んでいる。

今の体育の授業がどのような感じなのかは知らないが、少しは改善されていることを願う。  

多感な時期に施す教育の質が、国の今後を大きく左右する。
大げさかもしれないが、僕は本気でそう思っている。

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