恵まれていた小学生時代

さてさて、第一章は小学生時代です。


関東圏の田舎に生まれ、小学校入学までは父が仕事をして母が専業主婦をしてっていう、恵まれた家庭に生きていたと思います。強いて言うなら家は父の社宅でしたが、きれいな家でしたし、一軒家でした。山の中にある田舎で通学は大変だったけど
近所にふきのとうが生える場所があって、冬になってそれを摘んで帰ったら母親が天ぷらにしてくれたことを覚えています。それくらい田舎でした。

父親について

父は大手パチンコチェーン店の店長と課長を兼任していました。家に帰ってくることは週に1回くらいで、あまりなかったみたいです。正直言って私は父に関する記憶がほぼありません。というか、高校生くらいまでの記憶はあんまりありません。

母親について

母は私の事をかなり甘やかしてくれていて、私は典型的な泣けば玩具を買ってもらえると思っているタイプの子供でした。これに関してはもう仕方ないかなって思ってますけどね。親としては子供がかわいくて仕方ないでしょうし、母親からしたら帰ってこない旦那で寂しさやストレスもつもりに積もっているでしょうに。その上で子供もあれ欲しいこれ欲しいと泣いてわがまま放題で本当に可哀想なことをしていた(現在進行形でもという話は置いておいて)と思います、申し訳ない。まあ、泣けば思い通りにいくという風に育ってしまった幼いなのは少女も可哀想な子供だなって感じですけどね。まあ、これは一旦置いておきましょう。

恵まれた家庭で育っていた

当時、家にはお掃除のお手伝いさんが来ていたような記憶もありますし、クリスマスにはシャンパンを開けていた記憶がありますし、プレゼントは毎年もらえてました。自分の部屋も広い部屋があったし、めちゃくちゃ恵まれていたと思います。習い事もいくつかさせてもらえていましたしね。

ただ、一度始めた習い事を中途半端でやめる(飽きたからやめる)とかはさせてもらえなくて、父親を納得させないとやりたいと始めた習い事はさせてもらえなかったらしくて、塾・ピアノ・バレエ・水泳……と習い事をしていましたが、やめたいと言ったことはなかったみたいです。
辛くてもやりたいと言ったことは最後までやり通しなさい、という教育方針だったんでしょうかね。全然記憶にないです。

父親の記憶が「ない」

一緒に住んでいた頃の父親の事で唯一といっていいほど記憶に強く残っているのは、私のわがままで鼻血が出るまで殴られたことがあることです。

翌日に家庭科の授業でリンゴの皮むきがあるのを忘れていて、練習していなかった私は、前日の夜になって突然明日皮むきがあるって騒ぎだしたんだったと思います。母は仕方ないのでトマトで皮むきの仕方を一生懸命教えてくれましたが、上手くできなくて泣きじゃくる私に、父親がキレて鼻血が出るまで殴られた……って感じだったような気がします。

まあ、父親の気持ちもわからなくないです。だって、私が前もって親に伝えていてコツコツ練習していればよかった話ですからね。それなのに、泣いて文句言ってる姿とか見たら腹立つのは当然かなって感じだし、大人になった私が考えても何やってんだこいつって感じですし。
でも鼻血が出ても馬乗りになって顔殴られたのはショックだったし、そのせいかわからないけど父親との記憶は、この時のことと亡くなったときの記憶しかありません。

ちなみにリンゴの皮むきは

余談ですが、トマトで練習してただけあって、当日はリンゴめっちゃやりやすいやんけ!と思ってめちゃくちゃうまくいった記憶があります。知らんけど。


振り返れば総じて恵まれていた幼稚園、小学生時代だったなと思います。
そしてそんな恵まれた小学生時代は、私が小学校高学年の時くらいに突然終わりました。

父の病気が発覚

先に謝罪しておきますが、記憶が曖昧でほぼないので、時系列が正しいかは定かではありません。

いつからか父はずっと入院生活をしていて、母は献身的に毎日のように病院に通っていたみたいです。
多分それが小学校の3、4年生くらいでしょうか。母は専業主婦だったのに、いつからか確実に私はいわゆる鍵っ子だったのが強く記憶に残っていますから。

父の病気は、悪性リンパ腫。
当時の医療技術では、治療はほぼ不可能なような病気だったでしょう。

ですが、まだ幼い私にはその病気の重さがわからず、元々家に父はほぼ帰ってこなかったこともあって、「父がいなくて寂しかった」と思った記憶がありません。
もしかしたら思っていたのかもしれないけれど、覚えていません。
相変わらず習い事もたくさんしていましたし、父は片道一時間以上かかる大学付属病院に入院していたこともあって、私はほとんどお見舞いにいったことはありませんでした。マジで親不孝者だな。

ですが、私が小学校高学年になって、父がひょっこり帰ってきたのを覚えています。

記憶が途切れているんですが、いつからか私たち家族は隣の市にある、とってもボロボロな集合住宅に住み始めていました。
そして掃除もろくにされていなかった汚い家の中、私はとある紙を見つけました。
そこには請求書みたいなものと、金額(めっちゃ大きかった)が書かれていたのを覚えてます。
私はのんきに母に、「ママー、これ何?」と聞いた記憶があります。
母は焦って怒って私からその用紙を取り上げ隠して何も言ってくれませんでした。
今思えば、それは父が抱えていた莫大な借金の請求書でした。


父が抱えていた、あまりにも多額すぎる借金

父はもともと店長としてよくないことをしていたのか何なのか、そこについて詳しく聞いたことはありません。
ですが、会社の意向で、当時店長をしていた父は、何かしらの責任を全て負い、賠償金という形で多額の借金を背負ったそうです。

当然仕事はクビになり社宅を追い出されて、当時住み始めていたオンボロな家に住んでいたわけですね。

病気や歳のこともあり、父が再就職することはできず、母が働き始めました。
母は昔からやってみたかった花屋を経営することになりますが、まあなかなか上手くはいかず、このころから母はわがままを言う私に花瓶を投げつけてきたりしてきたのをよく覚えています。
父はまたいつからか入院していたようですが、やっぱり私の記憶には、父の記憶はほとんどないんです。

でも、そんなに両親が大変な中、のんきにわがまましている娘によく花瓶を投げつけるだけで我慢してきたな、強い母だ、と尊敬しています。
いや、これは嫌味じゃなくて本気で。
そして、母が花屋を経営していた時に現れたとあるお客様のおかげで、今でもこうして私と母は露頭に迷わず生きていけています。

「誰もいなかった」小学生時代

家に帰ると、いつも誰もいなかった小学生の6年間を過ごしていたのは記憶に残っています。
ごはんとかどうしていたか全く記憶にないですし、ただ毎日のように習い事に行っていたことくらいしか小学生時代の記憶はないのに、一人ぼっちだった、という記憶は強く残っているんです。

成長期にひとりぼっちで過ごしていた私が得たものは、「泣けば思い通りにいく」という経験則だけでした。
もしかしたら、親との確固たる信頼関係の形成や、愛情を受け取っているという、成長期につけるべき自信をこの時につけられなかったのかもしれないですね。

ただ、それは親だけが悪いとは思っていません。
寧ろ、なぜ病気になったのが父だったのか、辛い日々を過ごさなければならなかったのが私の両親だったのか、という思いはあります。

正直に言うと、恨んでないわけではないです。私の歪んだ人格形成に少しでも関与はしていると思っていますから。
父の悪い記憶だけが、欠けた記憶の中で唯一鮮明に残っているのが良い証拠だと思います。
だけど、31年間生きる中で、たくさんの分岐点はあったはずなのに、それを直さずに怠惰に生きた私自身の責任によるものが多いので、恨み言はこれで終わりましょう。


そして、私はここから、きつい中学生時代を過ごすことになります。


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