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自分が働いて得たお金でヴァンクリやフェラガモを購入したが、幸福感を得ることは出来なかった


近頃のSNSマーケティングは素晴らしいと思う。広告は当たり前。ネットの広告費は、テレビの広告費を追い越しているそうだ。シェア(クチコミ)された情報で、購買意欲を掻き立てられることは日常茶飯事。私も当たり前のように、「誰かのSNSの呟き」で消費行動を促されている。


社会人になって何年か経ち、ボーナスやご褒美で一般人が手に入れるものは一通りゲットした。元来ケチ気質なので、カバン、財布、アクセサリーは、手に入れたからには大切に使おうと思っているので、コロコロと変えることはないだろうと酷使している。

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その中で、そろそろ20代もいいところ、ダイヤモンド以外のジュエリーが欲しいなと思っていた時、四葉のクローバーを模倣したジュエリーが目についた。

通称ヴァンクリ。気になったので、ネットで調べていた。素材のこだわりや製法は興味が湧いた。その結果、どのSNSに行っても広告は出てくるし、個人の投稿が目に付く。リコメンド機能は賢いし、パーソナルな情報へと結びつける仕組みは素晴らしい。


私は清楚系では無く、どちらかというと青文字系(表現古いかもしれない)。そんな中、なぜ欲しいと思ったのかはわからない。


パートナーとのデート中、たまたまお店を見つけて吸い込まれるように足を運び、店員がちょうちょかクローバーかと商品を出してくれる中、「もしかしたらかわいいかもしれない」と店頭マジックにかかり、気がついたら自分のクレジットカードを切って購入していた。店員さんは、お会計の時に彼に持っていかず、私に持ってきた行動はよかったなと思った。それ以上でもそれ以下でもない。

モノの価値は、基本的には触れた瞬間から下がる。新築の物件は扉を開けた瞬間に価値は下がるし、身近な洋服はタグを切った瞬間に価値が下がる。ロレックスの時計は少し複雑らしい。時間が経っても値段が上がる場合があるらしい。それでも、モノの価値は下がっていくことが多いのだろう。


パートナーとのデートに着用、友人とのランチに着用、一人でお出かけする時や仕事中に着用をしたが、何も得られることはなかった。

ブランドの本来の価値は、着用することで得られる他者からの願望欲求や、自己肯定感を満たしてくれることではないのか。私はどれもしっくりくることができず、購入した喜びをストレートに受け止めることができない自分が皮肉屋過ぎるだろうと、ため息をつく。

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広告はすごい。人を惑わさせる考え抜かれた手法。広告に踊らされて購入した結果は虚無。私は一体何に憧れて、何を渇望していたのだろう。

友人にすごいと言われたかったのか、名のあるブランド品のアクセサリーを身につけることで、魅力が増すと思っていたのだろうか。浅はかだ。


「いい大人になったから良いジュエリーの一つや二つは持っておこうね」という時代は終わった。婚約指輪でさえ、持たないカップルが増えてきた。モノやブランドの価値よりも、自身の価値を指標とする文化へと変容してきた。

そして私は、モノ消費よりコト消費だよねと数年前からドヤ顔をするようになった。


ただ、同じ“モノ“ではなく同じ“コト“に惑わされているのは、根本は変わりが無いんだけどね。

ほらね、右手では、情勢が落ち着いたら次はどこに旅行したらいいかなと、すぐにインスタグラムで検索をしている。

広告や消費欲求からは逃れられない。少しだけ怖いね。私が私を満たしてくれるものと出会うことはできるのだろうか。

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