リップクリームが守ってくれた心
女子力、という言葉は、たぶんまだなかったと思う。
けれど今あの光景を目にしたら、間違いなくわたしは「女子力高いわ」と心の中で呟いただろう。
あれは確か、大学1年のとき。わたしの数メートル先を歩いていた女の子が、青空に向かってぱっと日傘を広げたのだ。真っ白で、ふりふりのレースがついた可憐な日傘。あのときの衝撃を、なぜだか今もよく覚えている。
あの頃はたぶん、まだ今ほど日傘がポピュラーなものではなかったはずだ。持っている人はもちろんいたのだけれど、少なくともわたしの周りの同年代の子で、日傘を日常使いしている子はいなかった。
だからこそ、おそらく同年代であろう彼女が日傘を広げた瞬間に、ものすごく目を引かれたのだろう。
ものすごく偏った見方ではあると思うけれど、あの日傘こそが彼女の美と、愛と、幸福の象徴であるように思えてならなかった。それと同時に、わたしには到底手にできない尊いものだと突きつけられたようで、軽い絶望を覚えていた。
わたしは当時、つき合っていた男性からあらゆる種類の暴力を受けていた。
その中には「物を壊す」行為も含まれていて、あんなふりふりの可愛らしい日傘なんかをウキウキして持とうものなら、ものの数日でバキバキに破壊されるだろうなと容易に想像がついた。
彼女にとって、日傘は誰にも壊される心配のないものであって、日傘に守られている自分は誰にも傷つけられる心配のないものなんだろう。
――あの後ろ姿をぼんやりと眺めながら、わたしはそんなことを考えていた。
◇
そんな日常の中で、唯一わたしの自尊心を優しく守ってくれていたのが、リップクリームだったように思う。わたしは昔からリップクリームが手放せない質で、化粧ポーチの他にも、いろいろな場所にリップクリームを置いて、すぐに使えるようにしている。
何を壊されても、メイクした顔をぼろぼろに殴られても、常にわたしにはリップクリームが寄り添っていた。
色も香りもなくただただ地味な「薬用リップクリーム」は、彼にとって壊すに値しないものだったろう。値段も高くなければ、希少性もない。それを1つ取り上げたところで、わたしにそれほどのダメージはない。そんな取るに足らないものを、彼はあえて壊そうとはしなかったのだ。
けれど、だからこそ。わたしの手の中にはいつもリップクリームがあり、乾いた唇を、心を潤してくれていた。リップクリームがあるという安心感は、確かにわたしの心を少しだけ柔らかくしてくれていたのだ。
拭けば簡単になくなってしまうその薄い膜こそが、わたしを守るヴェールだったのかもしれないな。
今回のお題「日傘」「リップクリーム」
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