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Nとの会話、卒論の記憶。

「小学生時代は英語も日本語もカタコトだったから、何を言っても馬鹿にされるんじゃないかって不安でね。あの頃は病的に気にしてたよ、自分が発する一言一句全てを」

そう言って、Nは笑った。

1歳から7歳までニューヨークで暮らしたというNは、帰国後いじめに遭ったそうだ。彼を取り巻くあらゆることが「周りと違う」という理由で。

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彼とは昨日出会ったばかりなのだが、大学の専攻が同じだということ、私が現在魅力を感じているLという会社のインターン経験者だということから話が弾んだ。そして話題はいつしか、私の卒論テーマ「ローティーンのブランド意識」に移っていた。

「――僕の彼女もね、全身ブランドづくしなんだ。中身に自信がないみたい。彼女が通う大学ではね、皆強迫観念に駆られてブランド物を買うらしい。常に最新のアイテムを持っていないと馬鹿にされてしまうって、怯えてるんだって。驚いたんだけど、同じシャネルのバッグを数回続けて持っていただけで、そろそろ別のものを買った方がいいって周りから忠告されるそうだよ。皆財布はヴィトンだけど、中にお札は全然入ってないってさ」

異様な光景を想像しつつ、私は母校のK女子高を思い出していた。温室育ちの‘お嬢さん’だらけの同校でも、似たような空気は蔓延していたのだ。

*

それにしても、Nが「ブランドに侵される人間に‘共感する’」と言ったのは意外だった。理解ではなく、共感。私は須く理由を尋ねた。実を言うと冒頭に記した彼の‘体験談’は、その返事の皮切りだったのである。

「――だから、わかるよ。何かに囚われて人と自分を比較し続けてしまう辛さ。僕の場合はコトバだったけど、ブランドも同じだと思うから」

滑らかな標準語で、穏やかに語るN。なるほど、‘ブランド中毒’という現代日本特有の病を私は特別視していたけれど、それがもたらす精神的苦痛に関して言えば同類のものが日常のあらゆるシーンに点在しているのだ。成績然り、スポーツ然り・・・無論、恋愛だって。

うだるような暑さをものともせず涼しげに微笑むNとの会話のあと、なんとなく自分の肩コリが和らいでる気がした。

帰ったら論文の続きを書こう。

夏はまだ長い。


※このエッセイは2005年8月18日に当時23歳だった私が旧ブログに書き留めていたものです。

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