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単純作業に祈りを込める

15年も前に、店のダイニングで働いていた人が、戻ってきた。

彼女は私が店を始めた、初期のころのスタッフだ。

5年ほどうちにいた後で、他の町に引っ越し、10年ぶりに家族の暮らす地元に帰ってきた。

今回、店で再び働き始めて、すぐに彼女が言ったこと。
「ねえ、キャンドルはどうしたの?」

それで思い出した。

そうだった、以前はパティオ席にある、小さなエンジェルのそばにキャンドルホルダーを置いていて、開店前にお祈りをしてからキャンドルに火を灯すのが恒例だった。

それは、基本的にはダイニングスタッフの"TO DO LIST"に入っていた。

祈りはどんなものでもいい。
そのとき、その人が思うこと。

思いやり、親切、平和と、調和。誰かの笑顔を思い浮かべるだけでも。

新しいスタッフにキャンドルのことを説明すると、最初は誰もが顔を輝かせてその儀式を嬉々として始めた。
開店前、キャンドルに火を灯して、少しのあいだ目を閉じているスタッフを見ると、店が整っていくのを感じた。

けれど、次第にスタッフは、その日常の小さな楽しみに 新鮮さを見出せなくなるものなのか、それを忘れることが多くなった。

お水やグラスやお箸の用意はやっておかないと、お店は開けられないけれど、キャンドルに火を灯さなくともお店は開けられる。だからスタッフはついついその密やかな儀式を、忙しさを理由に忘れてしまうのだった。

本当は私にとって、それが一番大切な、開店のための準備なのだけど。そしてその大切なことを、スタッフと共有したかったし、そのベースをもって、一緒に仕事をしていたい、という希望があった。

けれど、いつか私はスタッフに「キャンドル忘れないでね」と、言い続けるのに嫌気がさしてしまった。店に行くたびに、キャンドルに火が灯っていないのを確かめて、自分ががっかりするのが嫌で、ついにはキャンドルを店から撤廃してしまったのだった。

自分の心の中のキャンドルに、火を灯していればいいや、と割り切ったのだった。

「ねえ、キャンドル灯しましょうよ!私がちゃんと忘れずにやるから。あれはとっても大切なものよ。どうして止めてしまったの!?」

そう彼女は、私をやんわりと叱った。

同じものを一緒に「見て」、その価値を認めてくれる仲間が帰ってきてくれて、私は本当に嬉しかった。

彼女は、以前働いていた頃、開店前に客席をセットするときに私が教えたことも、ちゃんと覚えていてくれた。ナプキンとお箸を置きながら、「ありがとう」と、ここに座るお客様に 先に感謝するのだということを。

それは、その日、ここに座って食べて下さる人のために、この場を整えていく、という意味があった。

私は、そういったことを、日々しているうちに、どんな単純作業にも、祈りという意図を放つことで、クリアに望んだもののエッセンスが、結果としてもたらされるのだと知った。
私のイメージする純度の光が、届いていると感じた。

それだけでなく、その単純作業は祈りによって、瞑想という行為にまで昇華される。座ってする瞑想だけが瞑想ではなく、私たちのすべての行動はいつでも瞑想的であり得るのだから。

今、店で仕事をしながらふと見ると、店内にキャンドルの明るく、小さな炎が揺れている。
忙しいさなかでも、それを目にすれば、「何のためにここにいるのか」、という、私が仕事をする意図を思い出させてくれる。

そのたびに、私は笑顔になって、体中にエネルギーが巡るのを感じる。

ベス、戻ってきてくれて、本当にありがとう。


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