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おふろ日記

いつものように、庭に備え付けているお風呂に、仕事から戻って、ごはんを食べて、ゆっくりワインを楽しんだ後の夜中に、入る。

空は、雲が星のすべてを覆っていたけど、その雲がところどころで、とっても明るいグレーを放ってた。
仕事からの帰り道で見かけた、笑ったような、くっきりと黄色い半月のせいか。
でも、もっと驚いたのは、風がまったくなかったこと。
こんなことは滅多にあるものじゃない。

目の前に広がる、ユーカリの木々の、葉、ひとつさえ微動だにしてはいない。
切り取られたかのような風景が、静寂を増して、木々の茂った様子が、その黒い影が、どっと私の心に入って来た。

遠慮がちな、虫の音が添えられて。


アンディが2日前にメッセージを送って来て、今月末に私の町を通りかかるから、寄ってもいいかと打診して来た。

ああ、また彼は、私に聞くに違いない。

書いているか、と。

3行日記なら続けてる。
彼の出版したクリエイティブ・ライティングの本の中にあったメソッドも、試しては楽しんでる。
でも、たまにだ。

アンディに威張って、返事はできないなあ。

note に何か、書きたいなあ、って思うけど、
書くとなるといつも身構える。
さらっと、書くことができない。

小学校の頃から いつも宿題の読書感想文とか、提出する文章には、下書きして何度も推敲することを母から躾けられていたせいだろうか、

地元のタウン誌で働いていた時も、決められた文字数に収まるよう、断捨離どころでないほど文字を削りながら推敲した。

note はいいなあ、
つらつらといつまでも書き続けられて。

なのにそれができない。
いつも身構えて。

でも今夜、真夜中のユーカリの黒い影を見上げるうちに、テーマを選ばない、のんきな日記ならnoteに書き続けられるかも、と考えた。
そんなものでもアンディには胸を張って 書いてるわよと言えるから。


今、日々つけている忘備録である3行日記は3年前から始めた5年日記だけど、昔から長いものも、短いものも含めて日記をつけていた。

先日、11年も前の記憶を思い出す必要があって、日記をめくると、ちゃんとそれが記されていて、本当に助かった。
先方(病院)に連絡して、いついつにそちらに伺った証明が欲しいのです、と伝えることができて、自分を、いや、日記を見直した。

昔みたいに、感情的なことは殆ど書かなくなった。
読み返して再び辛くなったり、怒りが蒸し返すような、感情を吐き出すツールとしての日記は昔はよく書いていたなあ。
30年前、アメリカに来る前にそれまでのものは、全部庭で燃やした。
その時のことを今も覚えている。
そばで父が、私を楽しそうにひやかしていたっけ。

以前、稀有な人生を送っていた人に、本を書いたら?と言うと、今を生きるのに夢中でそんな昔のことを思い出してるひまはないのよ、と一笑されたことがあった。
同感。

どんなことも、書いてしまえば 過去の足跡でしかないのに、どうしていつも書くことに戻ってくるのか自分でも分からない。

分からないから いっそアンディのせいにしてしまっている。

今、この文章を、お風呂の中で、スマホを手にして書いている。
なんてお手軽な時代になったんだろう。

お風呂では、熱くなれば、すぐに風に吹かれて涼めばいいから、いつも1時間はのんびりしてる。いや、時々出て来ない私を心配して、夫が様子を見に来るから、それ以上かも。

ありきたりの日記を、ありきたりのまんま書いて、良しとしていこうじゃない?

再びふっと、そんな思いが湧いてきてた。

見上げると、木々の影は益々濃く、漆黒の塊となって、空にそびえていた。

柔らかなお湯はいつまでも私を緩ませて、見上げる空にも飽くことがない。だから、ここから出るのはいつも簡単ではないけど、
そろそろおいとまします、とユーカリに向かって目を伏せた。



アンディのライティング・リトリートに参加したときのこと。


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