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わたしには誰も守れない、の正体


実家の犬が危篤になった。


あしたいつどうなるかもわからない、と言われて実家に会いに行った。


わたしは引っ越した時から、犬を家に連れてきたかった。
今年16歳で、具合があまりよくないのを知っていたし、面倒を見ている家族も高齢で、世話が大変と言っていたので、いつでも連れてこれるように環境を整えたつもりだった。

そのためにペット可のマンションを借りたし、具合が悪くなってからいつ来てもいいようにちょっとずつ道具を買ったりしていた。


それなのに。


「高齢になった犬は環境を変えるとかわいそうだからだめ。ましてや具合が悪いんだから絶対にだめ」と言われた。


必死にお願いした。


家の中はバリアフリーでペットに優しいつくりだし、仕事も今は融通がきくし、一緒に寝るし、食事と医療の知識もあるから無添加の栄養のあるもの作れるし、家の周りは自然だらけで療養にもいいから、と。

でも「だめ」の一点張りだった。


環境を変えるのは老犬に悪い。そんなことはわかっていたけど、具合が悪くなった原因もわかっていたからどうしても実家から引き離したかった。


食べさせすぎで体重管理はできていないし、ドッグフードみたいな劣悪なものしか与えないし、毎日毎日世話がかかるだの、面倒を見るのが大変だの、目もどうせ見えないだのと、ひどい言葉を毎日浴びせていたから、一緒に住んでいた祖母が亡くなってから、一気に弱ってしまったのだ。


犬のことを考えたら住み慣れたところがいちばんいい。
元気な時だって引っ越しはかわいそうなのに、環境の変化に弱い犬のことを考えずに、連れて行きたいのは自分の勝手なわがままじゃんと言われればその通りかもしれなかった。
でも、なにもせずに後悔したくなかったのだ。


食事や生活環境を見ていたら、こうなることはわかっていたのに、なにもしてこられなかった自分がいちばんいやで、罪滅ぼしのつもりだとしてもなにかせずにいられなかった。

環境や食事を変えたら十分元気を取り戻すかもしれないことも、確信があった。

なにもしないであきらめるのが嫌だった。



でも結論、連れてくることができなかった。



また守れないんだ、と思った。


わたしは大事な人や守りたい人が苦しんでいる時に決まっていつも誰のことも守れないのだ。
今回もそうなんだ、と無力感に絶望した。


仕事をがんばっても、知識をつけても、環境を整えても、昔と何にも変わらず守れない。


父が亡くなった時も、祖母が入院した時も、彼氏が病気で倒れた時も、毎日仕事で会う患者さんが意味のない治療で亡くなるのも、そして今回も。


昔は子供だったり、未熟で自分に守る力がなかったから守れなかった人がたくさんいたけど、今は守れるのに。守る力があると思っていたのにやっぱり守れないんだ。そう思ったらなんかもうどうでもよくなった。無力だと思った。


なんでいつも、何もできないんだろう。
知識があっても勉強しても、だれのことも助けることができないんだったらなんの意味もない。


自分の存在が無駄に思えて、守りたい人を守れる人になりたいと思った。


セルフラブ月間が続いている恩恵から、感情を出すことに躊躇しなかったわたしは、いつもそんなことしないのに家族の前で怒鳴ったし、家についてからもひとしきり泣いて喚いて、ふとんをばんばん叩いて、ノートに怒りや悲しみや絶望感を書きまくって破って捨てた。


そして感じきったのか、感情がすーっと消えていくのを感じながら、そもそもなんで、わたしはいつも「誰かを守れない」という体験ばかり繰り返さなければならないんだろう、と思った。


思い起こすと昔から、何度も何度も繰り返している。


同じ体験を何度も繰り返すのは、目の前で起きている出来事のせいではなく、自分の思い込みや世界観からきているのだということを学んだ。


つまりわたしの潜在意識の中に、「誰も守れない」という思い込みが刷り込まれているということだ。そしてその思い込みどおりに、何度も何度もその世界を体験する。それが潜在意識の仕組み。


その思い込みは、元をたどればいったいどこからきているのか。幼少期に「誰も守れなかった」という経験をしたことはなかっただろうか、と考えた時、思い当たることがあった。


わたしはまだ小学生だったけど、両親のことを守れなかった自分が無力だと思ったことをはっきりと覚えていた。そこからか。この経験を繰り返すハメになったのは。


子どもの頃のわたしは何もできなかったし、今まで守れなかった人たちにも何もできなかった。あきらめていた。どうせなにをやっても無駄だと思っていた。


でも今日は戦った。
守るための行動を取ることができた。
あきらめずに。


結果それは叶わなかったけど、セルフラブ月間のおかげで自分の意思に従って行動することができたし、そのおかげでこんな根深いところにあった幼少期からの思い込みに気づくことができた。


今見ている現実は過去の自分が作り出したタイムラインだから、思い込みを外せた今日からは「自分はもう誰かを守れる」という世界観で生きていこうと思っている。そうしたら、未来のタイムラインでは誰かを守れる自分になっていけると思うからだ。


そんなふうに全体を俯瞰してみたとき、そしてこのnoteに書いてみたら、心の中が整理されて「やっぱりわたしのただのわがままだったかもしれないし、犬だって慣れないところよりも、実家がいちばん嬉しいのかもしれない」と理屈では少し冷静に考えられた。


感情ではやっぱり、そんなふうにすぐには思えないし、腹は立つし、どうしても空気の良いところにつれてきて、おいしくて栄養のあるごはんを食べてもらって、わたしにできることをしたかったけど。


だから、怒鳴ったことも感情をそのまま出したことも、あれはあれでいいのだ。そう自分を肯定していく。


ちなみに、わたしのように「自分は何もできない」「どうせ何をやっても無駄だ」という思い込みを持っている場合、学習性無力感というのがある。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness)とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。

Wikipedia



なんどもなんども、「どうせ無駄なんだ」「なにをやっても意味がないんだ」という経験をしたことがある人は、その後なにかにチャレンジしたり、「自分はできる」という自己効力感を持つことができなくなる。


無自覚なのでなかなか気づくことができないが、わたしみたいに「自分のせいで守れなかった」「自分は無力だ」という体験をしたことがある人は、同じ現象に陥っているかもしれない。


自分の中の思い込みを知って、顕在意識に引っ張り上げてくることでしか、思い込みを書き換えることもできなければ制限も外れない。


それを今、わたしは潜在意識やインナーチャイルドとの向き合い方、セルフラブをすることで取り組んでいる。


今日は死ぬほど腹が立ったし泣いたけど、そんな自分の中のかなり深いところにあった思い込みを引っ張り出すことができたので、良かったのかもしれないと思っている。


なにより大人気ないとか思わずに、感情をめちゃくちゃ出せることになったことが、自分の内面にすごい変革をもたらしている。


感情を出さずにものわかりのよい振る舞いをすることが、大人なんかではぜんぜんないのだ。


あなたが無力感に陥っていたとしても、なにもできなくなんかない。


ほんとうはなんでもできるのに、無力だった幼少期に「誰かを助けられなかった」「何もできなかった」体験をしただけなのだ。


子どもの時は、無力で、非力で、力もなくて、誰かに保護されないと生きていけなくて、何もできなかった。でも大人になった今なら守れる。誰かの力になれるし、助けられる。


あなたは絶対に誰かの役に立っている。誰かの力になっている。「何もできない」と思うことなんかないのだ。


それを思い出して「今度こそできる」「自分にはその力があるんだ」と思いながら生きてほしい。


今日の話は、気分が荒れていたのでけっこう文脈がめちゃくちゃだし、インナーチャイルドの話に加えて潜在意識の書き換え的な観点も入っているので良くわからない人も多いと思うが、自分の記録用に書いておきます。


selflove月間↓のつづきはつぎに書きます。


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