展覧会タイトル、『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』について / by naok fujimoto

東京都現代美術館で開催された展覧会(企画展:2022/07/16- 10/16)、
《MOTアニュアル2022 『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』》
を鑑賞。

『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』

この展覧会(企画展)のタイトルにおける問い立ての表裏一体な文脈について、一定の理解はできうるものの、《あらゆる鑑賞者に開かれた美術館の実現》をモットーに、"バリアフリーやホスピタリティを指向するアートの拠点化" と、"地域のハブを目指す" 東京都の公共美術館が、あえて、”私の…”と語るイノセントさに、持てる者と持たざる者とのゾーニングが補完されていくようで辛い。

なぜなら、これは地べたからは決して生成されない台詞だからだ。

スタイリッシュにしつらえられた都現美の展示室入り口の、ややグレイッシュな壁面全面に黒のタイピングで縦方向に施された本企画展のタイトルはアルデヒドで包まれたかのような射光のコントラスを放ちながら、かつての西側の帝国主義にみられるあらゆる権威を手中におさめる人々とそうしたかった人々によって築き上げられたあちら側の権力構造と、こちら側の世界とがいまもなお、見えない薄いシールドでかっちりと仕切られているようで、本タイトルが目に入った瞬間から息が詰まる思いがした。それはまるで、時おり訪れるいい匂いのご婦人方を前に、”間に合っています” の一言が言い出せなくて作り笑顔で受け取ってしまった全然好きじゃないマフィンを手にしていたときの気分とほぼ同じだった。


・『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』
・『正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』

これらの二つのテキストには明瞭な違いと隔たりがある。
それは単に、本タイトルの冒頭部分にある、”私の” といった語句(話し手自身を指す代名詞(第一人称)と格助詞)のある無しだけではない。


・誰が、この言葉を発するのか?
・誰が、この言葉を引責するのか?
・誰が、(この言葉を)、誰に向けて、放つのか?


そのテキストを発話する者(側)の立ち位置と発信元が明瞭になったとき、このテキストが持つ意味合いは大きく変わってくる。


発信元が不明瞭なアノニマスなテキストは抽象化される。
日本語における主語の不在は曖昧さという余白を残す。
けれど、発信元が明瞭なテキストは具体的な強度を持って、
創りあげたメッセージ性を観る者へとつつがなく放っていく。
時としてそれはスローガンとして、
或いは、プロパガンダとして、
キャッチされたコピーが知らず知らずのうちにサブリミナルな電光を放ちながら社会の層へと堆積し、やがて思想となって民衆を煽動していく可能性もある。

パブリック・ミュージアムが 臆することなく”私” と語るとき、
その健全性と公共性のなかに潜む危うさについて、
疑う者は誰もいなかったのであろうか。

もちろん、これはいち個人の考えでしかない。
ひとつの展覧会のタイトルの名付けであり、
それ以上でもそれ以下でもないという向きもあるだろう。

けれども、本タイトルでなければならない必然性と、
本企画展で、 ”私の" 正しさ…と語らせる剴切なナラティブを…
都現美によってセレクトされた4つのクリエーションを数珠繋ぎに鑑賞した後も、残念ながら、”私” には見出すことができなかった。


Who owns the art? 
Who owns the public museum?

So, this is not mine.
But there is my salvation.
Because I am an artist,  I just do what they can't do.

(All text by ©️naok fujimoto)



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