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子どもに障がいがあるということがわかったとき、親は動揺します。

はじめは実感が湧かず、色々な問題に直面することで少しずつ現実に起こっていることなのだと理解していく。

その後の混乱を通じて様々なことに折り合いをつけ受容に至る、というのが一般的な障がい受容の過程になります。


それほどまでに心を揺さぶられる理由。

それは「障がい」という言葉に対して湧き起こる、怒りや悲しみ、寂しさなどの感情。

そして子どもに対し、自分の心身の延長のような感覚を感じているからです。



障がいがあるということをネガティブな事象だと認識すると、子どもに起こっていることを受容することが難しくなります。

子どもの障がいを受容するということはどういうことなのか。

そういったことを、自身が障がい児の親であり、何百人もの障がい者に関わってきた医療職としての経験から考えてみたいと思います。




僕が本職で毎日関わっている方は、様々な病気や障がいを持たれています。

骨折や関節の変形などの整形疾患や脳梗塞などの脳血管疾患、パーキンソン病やアルツハイマー型認知症などの変性疾患など。

そのほとんどが、元々は元気に暮らしていた人達です。


また以前勤めていた医療の現場では、若い方も沢山おられました。

突然の事故で脳挫傷を起こした学生。

インフルエンザウィルスが脳に侵入して脳炎を起こし、意識が戻らないまま寝たきりになった若者。

ある日突然手足が動かなくなり、病院で治療法がない進行性疾患だと告げられ、何年もかけて寝たきりになっていく人。

その方たちとの触れ合いの中で実感としてあるのは、自分が健康に過ごせているのは単なる偶然に過ぎないということです。


人の健康状態にも多様性が存在します。

一見同じように見えていても、人の体は生まれながらに一人一人異なり、全く同じということはありません。

遺伝情報的に類似している一卵性双生児でさえ、異なる病気にかかり、異なる死期を迎えます。

生活に困らない程度に健康な人から、生まれながらに生命が脅かされるリスクを抱えている人、今は元気だけど明日には病気を発症してしまう人。

多様な人たちが生きている世界に僕たちは存在しています。


自分の子どもが持っている障がいは多様な人たちの一端にすぎません。


自分の子どもより重い病気に苦しむ人もいれば、不自由なく元気に生活している人もいる。

だから他者と比較する意味もない。

障がいというものは良い悪いというものではなく、単に「そこにある」ものでしかないのです。


そんな世界の中で、子どもが自分のもとに来てくれたという偶然を、僕たちはどのように受け止めるのか。

その繋がりをどうしたいのか考えること。

それが、子どもの障がいを受容するということだと思います。





子どもの障がいを受容することは通過点というよりも、状態やコンディションに似ています。

全く気にならない時もあれば、何かの拍子に急にネガティブに陥り、不安定になってしまう。

もう受容できたと感じていても、日常の波間にふと顔を覗かせる。

そんな一面があります。

そのようなとき不安に飲み込まれないように強く意識していることがあります。

それは自分が感じている苦労は、障がいと共に歩んでいる我が子が背負っているものに比べればたいしたことはないということです。

そうすることで自身の被害者ぶった甘い考えを律するのです。




子どもに起こっていること。
そして自分に起こっていること。

それらに安易なラベリングはせず、子どもとの日々の歩みに集中する。

そういった日常に対する姿勢が、結果的にさまざまな出来事を受容していくのではないでしょうか。



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