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Vol_27:「会って話すことが大事」とか嘘

昨日、高校時代の友人と食事をしてきた。
最近こそ、会う機会が増えたが、
それまでは一切会う事も、考えることもなかった。
卒業から数えるともう15年前になる。
ありきたりの感想ではあるが、昔と変わらない。
一瞬であの時代にタイムスリップできた。

みんなもう忘れてしまったかもしれないが、
2020年にコロナが流行したとき、
人との接触は控えるように呼びかけられ、
国からは緊急事態宣言が発せられ、街中に自粛警察が現れた。

このnoteのように「昨日友達と会ってきた!」
なんて言おうものなら、正義感を振り回す自粛警察に即逮捕されていただろう。

ただ、コロナ禍でで良かった面もある。
物理的な会食や飲み会が減り、商談もリモートになり、
1日の商談件数は倍増し、生産性も上がった。
もちろん下はパジャマのまま仕事ができる。

しかし、緊急事態宣言が解除されるやいなや、
対面での打ち合わせを求められる機会が増え、
「一度顔を見て話さないと」と言われお客様先に呼ばれるようになった。

もちろん、出来るだけ断っていたのだが、
物理的に「会う」という行為は、新型コロナウイルスくらいでは衰退しなかったようだ。

「人はオンラインだけで相手を信頼することができない!だから実際に会って、向き合って話すことが大事だ」

そんな意見がある。
もっと言うと「一緒に酒を飲まないと本音が分からない」とか、
「喫煙所でのコミュニケーションこそ大事」とか意味不明な議論まであるが、端的に言って全部嘘だと思う。

もちろん対面における情報量の多さは否定できない。
ZoomやGoogle meatsを使ったオンライン会議では、どうしても画質や音声に限界がある。その参加者に不慣れな人がいると、議事進行がもたついたりもする。


ただ、少し考えると今まで人類の歴史のほとんどは「オンライン以下」の、非常に希薄な関係によって形成されてきた。

たとえば、大陸への渡航が命がけの時代、国のトップが平時に海外へ行くことはまずあり得なかった。彼らがコミュニケーションとして用いたのは手紙や使者。国同士の条約を結ぶのすら手紙で交わされていた。

個人的な関係も同様である。
国内の移動でさえ大変な時代、子どもが親元を離れて働きに出る場合、それが今生の別れというテンションだった。

たった30年前ですら「上野発の夜行列車降りた時から」という歌がヒットしたくらい、遠距離=辛いという感じだった。

今では「じゃ着いたらLINEするね~」となってしまうので、まったく情緒がない。

「親に定期的に顔を見せる」なんて規範が誕生したのも最近のこと。

考えてみれば、インターネットやSNSが普及するまで、僕たちの多くは「年賀状」という非常に脆弱なツールで関係を維持していた。

年にたった1回、しかも下手をしたら一 行程度の短い言葉だけでつながっていたのである。

それが今やどうだろう、
何年も会っていない友達であってもSNSで子どもの顔が分かる。
キャンプに行ったことも、彼女ができたことも分かる。
もちろん一方的にであるが。

だから、久しぶりに会っても「久しぶり感」はまったくない。(こっちは)

SNS、LINEなどコミュニケーションはほぼ無料と言っても良いくらい手軽である。

つまり、これほどに人間同士が密につながっている時代もないのだと思う。


そんな中、わざ わざ対面接触をすることに、どれほどの意味があるのか。


「会う」という行為に逃げてはいけない。

これからの時代に必要なのは、リモート力とか電話力とか、下手したらSNS力かもしれない。

過去の偉人たちは手紙力が劇的に高かった。
手紙の中にコトバだけでなく重みや熱を伝えていたのだろう。

今の僕らは「言葉にできない」と言ってスタンプでごまかす。
これではダメだと思う。
ましてや、「とりあえず会って」とか言ってる我々の考えは甘いのかもしれない。

英語・中国語・ドイツ語、、、
何語が話せるかよりも、何を話せるかが重要。

そして、そのツールが何であれ、同じ温度と空気を伝えられる能力が必要になっている。

今日は祖母のお見舞いで、病院に「面会」してきます。
これはいつの時代でも対面が好ましい。

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