見出し画像

太宰治の『ロマネスク』に関する2つの疑問と考察



はじめに

今回「ロマネスク」を選んだ理由は、はじめて読んだあと、資料や解説を読んだ上でも、理解できない部分があったからである。

それは、大きく分けて2つある。

1つ目は、なぜ3名の主人公の父親が特に強調して描かれているのか。

2つ目は、なぜ3名は「居酒屋」にて一堂に会する必要があるのか。

この記事では、まず、なぜ父親の存在が強調されているかに対する事例、理由を明記した上で、なぜ3名が「居酒屋」にて一堂に会する必要があるのかに対する理由を明らかにし、個人的な結末の解釈を記述していく。


1.なぜ父親の存在が強調されているのか

「ロマネスク」を読み、私は、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎の主人公たちに加えて、それぞれの父親の存在が強く描かれていることに関心を持った。

仙術太郎の父親である鍬形惣助は、仙術太郎の言動や行動に振り回されながらも、最後まで太郎を見守る父親として描かれている。

仙術太郎の結末部では、「惣助はもはやわが子に絶望していた。それでも負け惜しみしてこう母者人に告げたのである。な、余りできすぎたのじゃよ。」とある。

ここでは、惣助はもはや太郎に絶望しているとの記述があるが、母者人への発言からは、「父親として最後の悪あがきをしてやろう」という惣助の意志を読み取ることができる。

次に、喧嘩次郎兵衛の父親である鹿間屋逸平もまた、次郎兵衛を陰から温かく見守る存在であることがうかがえる。

「父親の逸平は別段それをとがめだてしようとしなかった。」や、「ゆくゆくは次郎兵衛にこの名誉職をゆずってやろう」、「父親の逸平は、次郎兵衛の修行を見抜いた。」など、随所で逸平の行動や言動、思惑の記述があり、物語の中でもひときわ存在感がある人物として描かれている。

惣助と逸平は、もちろん差こそあれども、「子供を陰から温かく見守る父親の存在」として描かれていると私は考えている。

しかしながら、嘘の三郎はどうやら勝手が違うのだ。原宮黄村という男は、まったくもって息子を見守る父親の面影を有していない。

「空腹を防ぐために子への折檻をひかえた黄村、子の名声よりも印税が気がかりでならぬ黄村、近所からは土台下に黄金の一ぱいつまった甕をかくしていると囁かれた黄村が、五百文の遺産をのこして大往生をした。嘘の末路だ。」と書かれており、これは作者と三郎両者の意見であるように思える。

惣助と逸平とは真逆の存在として描かれていると言っても過言では無い。

なぜ、3作品とも共通して父親の存在が強調されているのか。これは、父親の息子への関心の有無、つまるところ他者から判ってもらえるような環境下にいるかどうかによって区別しているのだ。

仙術太郎と喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎を明確に区分し、最後の場面へと向かっていく。


2.なぜ「居酒屋」にて一堂に会する必要があるのか

「ロマネスク」では、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎、全員が「比類なき才能は、絶大な能力とともに、またその大きな責任をも伴う」という結末に達しているように見える。

なぜ、それぞれの話が完結しているかのように見せかけて、最終的に3人が一堂に会する場面を描いたのか。

実は、それぞれの話では同じ結末を辿っているかのように見せて、嘘の三郎の話はまだ終わっていなかったのだ。

三郎の話は、黄村が死に、「朝っぱらから居酒屋へ出かけた」ことが大きな転機となる。太郎と次郎兵衛に出会った三郎の「嘘の火焔はこのへんから極点に達し」、三郎は太郎と次郎兵衛の物語を内側からものにしてしまう。

つまり、三郎は、自らの嘘の中へと太郎と次郎兵衛を引き込んでしまったのだ。

3人が一堂に会する場面を描くことで、父親から関心を持たれていない嘘の三郎の、肥大化した絶大なる才能を表現している、と私は考えている。

つまり、周囲から分かってもらえないという孤独さが、嘘の才能を二人をも飲み込む絶大な能力にしてしまったということだ。

これは、作者による暗示であると私は解釈している。誰かから理解してもらえるということは、負の感情を抑止することにつながるのだろう。

父親からも理解されなかった嘘の三郎は、ついに比類なき嘘の才能を絶大なる能力へと昇華させ、父親からの理解があった太郎と次郎兵衛をも内側から蝕む恐ろしい存在になってしまったのだ。


おわりに

今回の記事においても、出来る限り太宰治の存在と物語を切り離して解釈するように努めた。

しかしながら、他のどんな物語においても、結末部分では作者本人の色が出てしまうものである。

嘘の三郎は、作者自身ではないだろうか。

「ロマネスク」からは、周囲から理解されずにひとり孤独を抱えつつ、周囲から理解されていた人々をも飲み込むほどに苦悩している作者の姿が目に浮かぶ。

太郎、次郎兵衛だけでなく、嘘の三郎も、作者本人もまた人間である。彼らは一様に「誰かから理解されたい」と根源的に願っていたのだろう。

「ロマネスク」では、息子に理解を示す存在として父親の存在が強調して描かれている。

肉親からの理解が得られない苦しみがどれほどつらいものであるか、作者は「ロマネスク」を通じて表現したかったのではないか、と私は考えている。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?