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松江怪談 夜松の女


松江怪談 夜松の女

音声で楽しみたい方はこちらからどうぞ。

 ――松の近くで、煙草を吸ってはいけません。白い女が引き寄せられてくるからです。女が声をかけてきても、返事をしてはいけません。夜に巻き取られてしまうからです……。

 ひんやりとした夜気が闇を溶かして、松江の町を包みます。風に乗って、一筋の紫煙が流れてきました。松の下で、一人の男が煙草をくゆらせているのでした。

 「お寒うございますね。」せせらぎのような声に、男は、おや、と眉を上げました。いつの間にか、女が隣にいるのです。優しげな面差しの白い女は、まるで、随分と前から男に寄り添っていたかのようでした。そうですね、男は白い息を吐き、ゆっくりと答えました。
 でも、この中は暖かいんだとか。そう言って女が撫で上げた松の胴には、ぐるりとこもが巻かれています。女の手はひとたび闇をかき、今度はやさしく、こもに触れました。

 「なかなかと残酷ですよね。」男が口を開きました。雪の季節、松はこもで巻かれます。まだ、少年だった頃、聞いたことがありました。――こもの中はぬくいけんの、松くい虫がもぐりこんでの。それをはぎとって火にくべんのよ……かかと笑った庭師さんを尻目に、こたつにもぐりこみます。暖かく心地よい闇の中、まどろみながら松くい虫を思いました。これで急に焼かれたら、無念だろうなあ。
 「かわいそうね。」心を見透かしたように、女が小首をかしげて笑いました。ええ、そうですね。答えるやいなや、夜がぺろりと捲くれあがって、男を呑み込んでしまいました。

 どれくらいの時が経ったのでしょう。木がはぜる音を聞いたように思いました。ぱちぱちという音は次第に近づき、怒号と足音があちこちで上がります。火事だ、男は気付きました。逃げなければ、暖かい闇の中で、思いました。「逃げては、だめ。」ふいに女の声が飛びました。声は静かに続けます。「大丈夫よ、待ちましょう。逃げないで、待ちましょう。」男は、声のした闇を見つめました。刹那、赤い火の粉が散りました。そして、記憶は再び闇の中へ埋もれてしまいました……。

 まぶたに白い光が差し、男はうっすら目を開けました。川の流れる音がします。なぜここにいるんだろう。たしか昨日は飲んだ帰りに……。でも、どうしても思い出せないのです。男は首をひねりながら帰って行きました。

 男は知りません。白い女がその後ろで悲しげに頭(こうべ)を振り、松の幹に溶けていったことを。
 
 男は知りません。幾百年も前の大火のことを。

 夜の町に火の粉が舞いました。躍起になって家財を道に運び出す者がありました。退路を断たれて川に飛び込む者もありました。そして一人の女がありました。それは、火消しの妻でした。女は待っていたのです。仕事を終えて帰ってくるはずの夫を。たった一人、湿った布団にくるまって、待っていたのです。

 松の近くで、煙草を吸ってはいけません。白い女が引き寄せられてくるからです。女は、待っているのです。もうずっと、ずっと……。

作品に寄せて

 10年前、「怪談」で知られる文豪、小泉八雲の没後110年にちなんで、松江市文化協会が発行する文化情報誌「湖都松江」の編集部と松江観光協会が公募した「新作怪談」に応募し、優秀作8点に選ばれた作品です。
 私は小泉八雲が教鞭を執ったという高校に通っていたため、小泉八雲も怪談も、なんだか身近な存在でした。なかでも好きなのが雪女。
 これも、タブーと別れがテーマです。
 どうして、異類婚ってこうなんでしょう。なぜ、異類の女性は、愛する人を試すようなことをして、涙ながらに去って行くのでしょうか。浦島と雪女が、今に連なる私の伝承に対する「ふしぎ」の根っこにはあるのかもしれません。

本作品は、『松江怪談』(今井出版)に収録されています。
他にも創作怪談や小泉八雲の作品が収録された一冊ですので、
気になった方は手に取っていただけると嬉しいです。

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