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春の便所 春の煙突

彼は私の友人です。

彼とは、月に一回、県北の福祉事業所の芸術活動「アトリエさと」でお会いするIさん。以前は別なアトリエで週に一回お会いしていたから、かれこれ10年近いお付き合いになるのかなあ。

Iさんは、ものごとの記憶の仕方が、たぶん皆さんと違います。特に「時間」について。

切れ目なく続き、流れ続ける、目に見えない「時間」。「時間」には、たとえば8時や10時のような「時刻」と、過去・現在・未来のような「区切り」があります。

私たちは子どもの頃から、自分が自然に感じる切れ目ない時間の流れと、周囲の人たちが使う様々な時間に関する言葉とを照らし合わせながら、いつの間にか自然に、時間に関する体感と言葉とを統合して行きます。

さっき。いま。もうすぐ。あとで。
きのう。きょう。あした。
あさ。ひる。よる。
はる。なつ。あき。ふゆ。

私たちは自分でも気づかないうちにそんな数々の言葉で、様々な時間を感じ取り、イメージし、伝え合えるようになります。
いつの間にか、何となく。

1年前の記憶と、1分前の記憶。
私たちは瞬時に何の苦労もなく区別できます。去年の記憶と先月の記憶と、ついさっきの記憶とを、まったく違う感触で思い起こすことが自然に出来ます。

だけどIさんの中では、時間感覚の記憶のされ方が違うのです。彼の記憶は多分、私たちが知っているのとは違う時間の感触を持っています。私たちが使っている時間の言葉が、Iさんにとっては全然自分の体感にしっくり来ないのです。

過去ばかりでなく、未来に対してもです。人が言う「もうすぐ」や「だんだんに」とは、一体何を手がかりにイメージしたらいいものなのか。
私たちが当たり前のような顔をして扱っている時間の言葉が、Iさんには霧に包まれた得体の知れないものでしかないのです。

だからIさんには、この後のことを「予測できない」という困難がいつも付き纏い、それは大層しんどいことなのです。

誰かが平然と言う「今」とはいつのことなのか、「明日」とは何のことなのか。
「今言われたこと」とは何を指しているのか、「ずっと前に聞いたこと」とは何を指しているのか。
「もうすぐ」とはいつのことなのか。「いつか」とは。
4月は春だと聞いていたのに、雪が降っている。今日は春なのか。それとも冬なのか。
冬と春を、春と夏を、どうやって見分けるのか。その境目はどこにあるのか。

それらを知りたくて、必死に質問の言葉を組み立てようとしますが、扱うのがとても苦手な言葉。全力でかき集め、懸命に尋ねようと試みる。なのに口から出る言葉は、本当に言いたい言葉とどうして違ってしまうのか。

大きな窓のあった以前のアトリエでは、Iさんはよく窓の外の空を、庭の花を一生懸命見ていました。その視線から、自分の心が自然の中へと溶けていくIさんの心が伝わってきました。本当は人の言葉で区切りようのない、切れ目なく拡がっている自分と同じ、命。

出会って一年後くらいからでしょうか。Iさんと私は、窓の外に見える「時間」のよすがを写し取る言葉を、一緒に探し始めました。
Iさんはそのよすがを一つ一つ、紙に文字と色彩で描き込みはじめました。それは歳時記のリストのような、あるいは暦のようなものに見えます。この暦づくりは、今では彼のライフワークになりました。

最近では、Iさん自身はこの暦を指さして、「絵ですね。」と私に言います。「絵です。」と私は応えます。
絵です。

また、Iさんは「日本の歴史人物辞典」をいつも持ち歩いています。
信長だの光秀だの、光圀だの、もう死んだ人のはず。役者も。それなのにテレビ(ドラマ)なんかにひょっこり出て来るので、彼は動揺する。おちおち安心して暮らせない。

Iさんが子どもの頃から親しんできた「一休さん」に至っては、もう混乱以外の何者でもない。アニメに出てきたり絵本に出てきたり、ドラマに出てきたり歴史本に出てきたり。

この世界の秩序維持の為に、確かな生死を、Iさんは「歴史人物辞典」をくり返しくり返し読み確認します。また耳でも確認するため、私に音読を求めます。今は無くなりましたが、以前はさらに生死を確認するため、「死んでますね。」と声に出しての仕分けを何百遍求められました。

Iさんのもう一つの仕分け対象に、「歌」があります。
生きてる人が歌っている歌と、亡くなった人の歌では、イメージ上の感触が違うらしいのです。「歌」は生きている「歌い手」の行為として生起するもの。歌手が亡くなれば、その歌も一緒に死んで、実体が失われてしまったように感じるらしいのです。

Iさんの中の「生きている歌」は、写真の絵暦に一部登場しています。
写真が不明瞭ですが、森昌子の「越冬つばめ」、森進一の「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」。いい歌ですよね。2人は別れちゃったけど、生きている。
原則としてIさんは「死んでる歌」は描きません。でも唱歌は別だったりします。「浜辺のうた」とか。ああ、いい歌です。

歌手は生きていても、時々Iさんの詩情に合わないと即座に却下される歌もあります。例えば細川たかしの「望郷じょんがら」は「いいですね!」だけど「北酒場」は「ダメですね!」と言う具合いに。

毎月のアトリエさとの終わりに、次は私が何月何日に来るかをIさんが追いかけて聞きに来るようになり、心配させないように今はこちらから分かる範囲の予定を伝えて帰ります。

不思議なことですが、いつからか会わない日々もIさんと心で会話を交わしている。「友だち」と自然に言葉が浮かぶ。そう、友だち。私の友だち。時計の文字盤の外へ出た、なつかしい人々が話しかけてくるみたいに、

春の便所 春の煙突

田舎の便所の煙突を俯瞰する彼の美しい世界を感じるのです。


片岸なお子オフィシャルサイト


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