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魂の物語―ゴンサロ・M・タヴァレス著『エルサレム』書評

書評家の豊崎由美さんの翻訳者向け書評講座に参加しました。三冊の課題本の中から『エルサレム』を選んだのは、すでに読んでいてすばらしい小説だと感じていたからなんですが、いざ書こうとすると考えがなかなかまとまらずにかなり苦しみました。なので、講座には覚悟をきめて臨んだのですが、豊崎さんからは鋭い指摘とともに励ましの言葉もいただき、感激しました。また、一緒に参加したみなさんからたくさんの刺激をうけました。その時に指摘していただいたことを踏まえ、書評を書き直しました。

豊崎さん、幹事をしてくださった新田さん、ほんとうにありがとうございました。
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「魂の感覚がなければ、魂でガラスを割れよ。」
 こぶしでガラスを割ろうとする主人公ミリアに、彼女と同じくゲオルク・ローゼンベルク精神病院に入院している患者から、そんな言葉が投げつけられる。これに対しミリアは、魂はガラスなんて割らないし手は割るのに慣れているからと言い返し、再びガラスを割ろうと手を振り上げて取り押さえられる。ミリアがガラスを割ろうとするのは右手の感覚を失ったからで、たとえ目に見えていても、開いたり閉じたりすることができても、ミリアにとって手はそこにない。ガラスを割れば手は傷つき、血を流し、痛むが、その痛みは手がそこに存在する証になると、ミリアは考えたのだろう。しかし同じ病院の入院患者には、ミリアの失ったものが実は手ではなく魂の感覚であることがわかっている。だから、こんな強烈な言葉を彼女に浴びせるのだ。
  手と魂――それは、「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/私の右手はなえるがよい」という旧約聖書の詩編の一節によって結びついている。エルサレムは、ここでは強制連行されたユダヤ人にとっての故郷、魂の在り処であり、決して忘れてはならない場所である。右手の感覚を失うとは、自分にとってのエルサレム、つまり魂の在り処を忘れてしまったということになる。
 街でいちばんと評されるゲオルク・ローゼンベルク精神病院の院長ゴンベルツは、「狂人とは不道徳な行いをする者」と考えるだけでなく、「道徳的な行いをしても、不道徳な考えを持つ者は、やはり狂人である」という信念の持ち主だ。それ故、彼の病院では倫理的な治療が重要視され、患者は健全であるかどうかを行動だけではなく思考によっても判断される。そして患者には、「規律正しく、秩序立てて、受動的に行動する」ことと共に「何を考えるべきかわかっている」ことが求められる。そこに入院中のミリアはある不道徳な行いに及び、それ以降、暴力的な監視と悪意に満ちた行為が、彼女のためという名目で仕掛けられるようになる。そんなナチスの強制収容所をも思わせる状況の中、ミリアは魂の感覚を失ってしまうのだ。
 本書を読み終えた時、最も強く心に残ったのは激しい痛みの感覚だ。ミリアだけでなく、ゲオルク・ローゼンベルクに関わる人々はすべて強烈な痛みを抱え、のたうちまわるかのように生きている。それはもちろん、読んでいて明るい気分になるものではないが、では息が詰まるほどに苦しいものかといえばそうではない。登場する一人ひとりの人生は圧倒的に力強く、鮮やかで、読み進めるに従って、読者はそこに描かれる人々と共に強烈な「生」を味わうことになる。そこが本書の大きな特徴であり、魅力だろう。傷つかないほうがいい。痛みはないほうがいい。普段、私たちはそれを当然のこととして、周囲からはみ出さないように身を縮ませて生きがちだ。でも、もしかするとそれは、ゲオルク・ローゼンベルクで監視下にあるのと同じ状態なのかもしれない。果たしてそれで生きているといえるのか、魂はそこに在るのかと、本書は問いかけているように感じた。
 物語は、基本的には五月二十九日の朝四時に、ミリア、エンルスト、テオドール、ハンナ、ヒンネルク、カースの六人が、それぞれ何らかの必要に迫られて家を出て、その後何が起きるのかについて展開していくのだが、そこに過去の出来事が時系列を無視してぽつぽつと挿入されていく。読者にとって親切とは言えない構成で、最初のうちは何がどうなっているのか把握し辛いところもある。しかし一章一章が短く、場面がテンポ良く切り替わっていくために、いつの間にか引き込まれて次へ次へとページをめくってしまう。読了後にもう一度読み返せば新たな驚きがあり、その驚きと共にますます小説の世界にはまり込むことになる。ゴンサロ・M・タヴァレスの『エルサレム』は、そんな至高の読書体験を味わわせてくれる。



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