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夏日

 いつまで迷えば良いのだろう。朝から衣料品売り場で、男性の下着のズボン下を選んでいた。そう、昔で言う『ももひき』である。外は30度を越す夏日でも、冷房の効いた部屋は父には肌寒いかもしれない。さてはて、『ももひき』は薄手でいいのか?Tシャツくらいの綿100%の厚さでいいのか?わからないから、両方とも3枚ずつ選び、靴下も購入した。


 店を出ると逃げようのない猛暑。ギラギラした太陽と、照り返しからくるアスファルトの熱が身体中を襲った。ハンカチを握りしめながら、実家へと向かう途中、傾斜30度程の坂道。一歩一歩登るたび、汗と生気が吸い取られているようだ。ようやくたどり着いた実家の扉を開けると、長袖のシャツを着た父が、冷房の効いた部屋で寛いでいた。



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 母は先週ショートステイ(といってもロングステイ)へ行った。ひと月の間に2泊3日家に帰る。だけど、その数日しか会えないって事が、お互い寂しかったようだ。父は考えた挙句「一週間ショートステイへ行きたい」と言った。ケアマネに相談すると、思いのほか早く空きが回ってきた、と連絡があった。トントン拍子に話は進み、父の宿泊の用意をする事になったのだ。


 結局『ももひき』は厚手が良いと、寒いのは苦手だと父は言った。ありとあらゆるものに名前を書き込んで、バックの中に詰め込んだ。そして伸びていた髪を切って(ついでに飛び出ていた鼻毛も切って)、お風呂に入れた。お風呂上がり、父の波平さんの様な頭は、タオルで撫でただけですぐに乾いた。痩せっぽっちの身体を拭いて、新しい下着と紙パンツと洋服を着せた。



 午後の12時半をまわって、父のお昼の用意をした。ティファールの電気ケトルでお湯を沸かし、急須で玄米茶を入れた。ご飯に水を入れ柔らかく煮て、梅干しとしそ昆布を添えた。おかずを買ってきたけど、卵焼きを一口とシャケを少し突いただけ。相変わらず栄養ドリンクに頼って食が進まなかった。飲み込みが悪く、時には水にさえ咽せこんでいる。母はどんな気持ちで一緒に食事をしていたのかと思うと、少し切なくなった。


 数日前、母の面会へ行った。案外元気そうで、髪もきちんと整えられていて、ホッとした。夜もぐっすり眠れるらしく、ご飯も残さず食べていると言う。父がもうすぐ来ると知って「一緒の所にいられるのは安心だわ」と、顔を綻ばせていた。ふたりでの生活も、やれるだけの事は頑張ったのだろう。父さえ良ければ、ふたり共入居して余生を生きることも、ひとつの形なのだろう。



 午後3時過ぎ、庭に出していた洗濯物を取り込んだ。手で触ったらバリっと音がしそうなくらいに、タオルもシャツもカラカラに乾いていた。ふと、庭の植木に目がいった。サボテンは元気だけど、うつむいている植木もあった。毎朝ヘルパーさんが水をやってくれているので、かろうじて緑を保っているのだろう。一年前まで水やりをしていた、父の姿が頭をよぎった。私は外の水道につながれたホースを手に取り、蛇口をひねった。


 手前の植木から、庭の奥まで順番に水をかけた。ホースを指でぎゅっとつまむと、水は勢いよく放物線を描いた。それはたくさんの雫になって、草花へコロコロ降り注いだ。 束の間、青空に放たれた雫の群れを眺めていた。そのひと粒ひと粒が陽に照らされ、水晶のようにキラキラと光っていた。庭の石が、溢れ出た水を吸い込んで、黒く染まっていった。


 風が夏の匂いを連れて通り過ぎていった。去り際に、額に張り付いた私の前髪を、そっと揺らした。










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