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高校での常勤講師としての日々(2)

さて、4月から高校教師(常勤講師)として働き始め、生徒が登校してくる4月の初旬を前に、4/1から怒涛の授業作りが始まった訳ですが。
だいたい「どれくらいのレベルか」というのは、生身の生徒を前にしないとわからないものがあります。

よって、いくら計画を立てたとしても、計画は計画。
生きた生徒を目の前にした時、その計画の変更にどれだけ柔軟に対応していくか...これが常に求められます。

実際のところ、私は新高校3年生を担当することになったのですが、彼らにとって私は完全に"新参者"
初対面のその日から「俺らの方がこの学校のこと知ってるからな」感が否めませんでした。←
そして、自分たちとさほど年齢も変わらない若い女性教員がどんな話をして、どんな授業をしていくのか...生徒たちは内心ワクワクしている感じでした。

私は年度当初、新しいクラスを担当する1番最初の授業は”自己紹介"と決めています。つまり、50分を「自分を知ってもらう時間」として使います。
私を知ってもらい、彼らに色々と学校のことを教えてもらうのです。

「今日、授業じゃないん?やったー!」
と、喜ぶ生徒が多くいますが、それでよし。
「相手のことも知らずして、その人の話など聞く気にもならん」
これは、企画営業をしていた頃に学んだことかもしれません。

高校教師として最初の授業ですが、まさにこのnoteで書いてきた"高校"の時の話から始めたことを今でも覚えています。そして"高校中退"という言葉を聞くと、生徒たちは反応よく「パッ」と顔をあげてくれます。
「え??」という感じなのでしょう。
そして、そこから「何で?」という説明を求める表情をするのです。

そういった意味でも、私の「高校中退」というキャリア?は、高校生の心を掴むのにもってこいのネタです。

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私が初めて赴任したこの工業高校は、クラスのほぼ96%くらいが男子生徒でした。
そして、東大阪に位置し、決して「勉強が好き」という子たちではありませんでした。しかし、生徒の中には義理や人情を大切にする生徒も多く、愛嬌があり、人懐っこい生徒たちもたくさんいました。

生徒たちの卒業後の進路はほとんどが就職です。
よって、ほとんどの生徒にとって大切なのは専科の授業(工業の授業)で、
工業科の勉強をし、工業科の教員と関係を築き、時には検定を取得し、
卒業後の春から新入社員として現場で働くことでした。

よって、普通科の授業、特に英語に関しては、
「俺は、一生海外に行くつもりはないから勉強する意味はない」とか、
「日本に住んでいる以上、英語を学んで、話す必要は全くない」とか、
「外国人がいても日本語で話すから大丈夫」とか...
「卒業するための単位習得」と割り切り、"嫌々"英語を学ぶ生徒もそれはそれは多くいました。

起業を目指していた頃は「学校教育で英語を学んで後悔しない人を!」と意気込んで、その道を諦め教職の道を志した訳ですが、目の前の生徒はそういった私の最初の気合のようなものを良い意味でへし折ってくれました。

しかし、私は生徒を前にして不思議と全く絶望しませんでした。
...というのも、何となく生徒たちの気持ちも分かったからです。
少なくとも、「彼らがそんな風に思うのは彼ら自身の責任ではない」と直感的に感じたのでした。

そして、彼らに英語の授業をし始めてから、
「この生徒たちにはこの生徒たちなりに"英語という教科"から学ぶことがある」という風に考え直しました。

それは、
英語が好きになる。とか、
文法が理解できるようになる。とか、
英語が読めるようになる。とか、
英語が話せるようになる。とか、
英検で何級をとる。とか、
TOEICで何点をとる。とか、
そういったものとは異なった視点での英語です。

愛嬌があり、物怖じせず、誰にでも人懐っこく語りかけてくる生徒が多いこの場所で、英語の授業を通して彼らに身につけて欲しいと思ったのは、
「困っている外国人を見かけた時に"どうしたん?"と、日本語でも話しかけられるだけの外国文化に対するハードルの低さ」のようなものです。

言葉にするとなかなかニュアンスが伝わりにくいかもしれませんが、
要するに、困っている外国人を見つけた時に放置せず、
「助けてあげよう」
と思えるだけの姿勢。

異言語、異文化を持った人たちに対するコミュニケーションのハードルを下げる。という意味での"英語"だと思ったのです。

もちろん"姿勢"が必要なだけだから、英文が読めなくても良い。ということではありません。
それだけの姿勢を身につけるためには、まず言語を通して、外の世界を知ること、自分が生きている場所との違いを知ることから始めなければいけないのだと思いました。

相手を知らないからこそ、無関心になれる。

無関心とは時に最強の武器になります。まずは相手を知ること、関心を持つための授業をすること。
最低限の英語教育はそこで、そこからより関心を抱く生徒が言語としての英語に注力していけば良い。と割り切りました。

私が彼らと授業において関係を築く中で、「単位を取得するための授業だと思って欲しくない」と伝え続けました。

私はいつも、授業の中で自分の人生観や哲学を語り、彼らに私自身を知ってもらい、彼らについて語ってもらいます。
まずは私が両手を広げて彼らを待っているということを、常に伝え続けるのです。そして、私自身がどんな人間かを曝け出すことで、彼らには安心して授業を受けて欲しいと思っていました。

私自身、中学の部活引退後は少し荒れた時期もあったため、彼らが抱く"大人への不信感""ルールに当てはめられることへの窮屈感"は多少なりとも理解できました。

「そんなこと言ったってやらなあかん」
と大人から投げかけられる言葉がどうしても附に落ちず、自分が「意味がない」と思うことはやりたくない。
彼らが頭ごなしに何かを言われて爆発する様子などを見ていると、それらの態度の原因は彼ら自身にあるのではなく、社会や大人、保護者の対応にあるのではないか。と思えてくることも多かったです。

とにかく、私はとても楽しくこの学校での日々を過ごしていました。
「なおちゃん」と私の名前を呼び、肩組みしてくる生徒も、「ほんまあいつ(教員)だるいわ」と他の教員について私に愚痴をこぼす生徒も、寝不足で不機嫌なまま私に八つ当たりしてくる生徒も、授業内容が脱線することだけを日々の悦びとして話しかけてくる生徒も。笑

そんな生徒たちからの"からみ"を時に受け止め、時にかわし、時には本気で向き合い、叱り、声を荒らげ、高校教師としての毎日を過ごしていたのでした。

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