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mome氏の「他者に合わせる人こそ自己中で不自由 / アドラー心理学」を読んでみて


こういう議題は大好きである。
ちなみに元記事は下記である。気になった方はぜひ、読んでいただきたい。




人にどう思われるか?はいけないことなのか?


私たちが、「人にどう思われるか」の視点で考えてる時、それは、本当に周りの人のことを思って動けているのだろうか?

人を気にしすぎる人は、下記のように考えているのではないかとmome氏は言う。

自分は人からどう見られているか?

自分はどう思われているのか

自分は
評価されているのか
自分には価値があるのか

自分は、自分は、自分は…

他者に合わせる人こそ自己中で不自由 / アドラー心理学

得てして、人間らしいと私は、思う。

この価値観こそが、自分が所属する集団社会から外されないための防衛手段・・・とかいうと、つまらない気がするのでやめておこう。


・・・


おっと、

まさに、人を気にするということはこういうことだ笑

そう、私は今、人にどう思われるんだろうということを気にしたわけである。

しかし、この時点で、他者からどう思われるかは気にしてはいるものの、実際の読者が、この発言を見て自己中心的だなと思うだろうか?

いや、私なら思わない。

とはいえ、様々な読者がいるから、一概には言えないのだが。

自己中心的というのは実際に、

自分が他者にどう思われるかということと、それによって、自分に価値はあるのかということが直結した時に起こるのではないのか、とふと考えた。

自分は評価されているのか
自分には価値があるのか

自分は、自分は、自分は…

他者に合わせる人こそ自己中で不自由 / アドラー心理学


どういうことかというと、

他者からどう思われているかで、自分の評価や価値を決めてしまうということは、基準が他者の行動になるから、結果的にその場しのぎの、他者の気分や行動次第で自分が振り回されてしまう。

それが、自分にとっても相手にとっても良くない状況を作り出すことがあるからだ。

相手の評価に振り回された行動には、相手のためになるという本来の行動より、自分が評価されたいとか自分が嫌われたくないからといった行動を優先しがちになる。

他者の評価が自分の価値に直結する場合、相手に振り回されてしまい、本来の相手を尊重した上での相手のためになる行動がとれないからだ。

結果、自分を分かってほしいといった、自己中心的な行動につながる恐れがある。

例を出そう。

ケース1「なんで、私のことわかってくれないの?」


私:パートナーとは一緒に暮らしている
パートナー:仕事熱心で責任感が強い。

パートナーが「カレーを食べたい」という会話を昨日していたことを思い出す。

私は、仕事に行ったパートナーのためにカレーを作って待っていた。

しかし、パートナーは、仕事が忙しくて、帰りが遅くなり、連絡ができなかった。

私は遅くまで待っていたが、パートナーは遅れてきても「連絡が遅れてごめんね」としか謝罪は来なかった。

しかし、カレーライスを作って待っていた私は、「パートナーが好きなカレーライスを作って待っていたんだからそれに対して謝罪してほしい」という気持ちでいっぱいなのだ。

(私だったらカレーライスをつくってくれたんだね、もっと早くに連絡しておけばこんなにもやもやさせなかったね、ごめんねって言えるのに)ともやもやをかかえている私。

パートナーにそれを問い詰めても、「謝ったのになんで?」と言われるからもやもやしている。

私は心の中で怒りが抑えきれない。

なんで、わかってくれないの?

同じ友人はそれわかるわかるーと共感してくれるのに。


このケースは、私となる人は、「カレーライスを食べたい」といったパートナーのために先回りしてカレーライスを用意していたのに、相手は、同じように自分のことを気遣えていないことに対してイライラしている。

これすなわち、自分がこういう行動をしたのだから評価してほしい

という気持ちの裏付けである。

しかし、ここで問題なのは、他人は同じように相手のことを気遣えるという能力があるか、ということだ。

それは、お互いが同じ能力がある前提なのだ。

また能力があったとて、考え方や価値観も人それぞれなのは然り。

気遣いをすることで、正当な評価をもらえないと嘆くのであれば、それは相手に対して過度に期待しているからだ。

相手は自分のすべてを理解してくれるわけではない。

相手のためを思って行動したのだったら、自分がたとえ評価されたとしてもされなくてもどちらでもいい、それを受け入れるかは相手の問題だからというのであればそれは自己中心的ではないだろう。

ポイントはこの例のように、相手の行動に対して自分の価値が直結しているかどうかで行動が変わっているという点だ。

他人に理解してもらえないことが自分の価値を否定されているように感じているわけだ。

また、気遣われるのも嫌いな人もいる。

ケース2「気遣いたくない」


私:悩み事は一人で解決でしたい
Aさん:悩み事はみんなで解決したい

(電話で)
Aさん「落ち込んだから、髪を切ったの」
私「どんな髪型にしたの?」
Aさん「・・・あ、うん、パーマをかけて・・・」
冷たい、嫌われている?


といったようにここでも違いが生まれる。

ここに出てくる私は、Aさんに対して別に嫌いなわけでもない。

自分が干渉されると嫌なことは、人にも干渉しないスタイルだからだ。

つまり「落ち込んだの、心配だよ、どうしてー?」と聞かれるのが嫌な私はAさんに心配させているというように思われることで負担を掛からないようにして、話しているのだ。

しかし、ここでAさんが最初に「落ち込んだから、話を聞いてほしい」と言われれば聞いていただろう。

Aさんは、私である人の言動に対し自分の主観で、嫌われているか嫌われていないかで判断している。

無意識にAさんが自分のように相手が気遣ってくれるという期待からきている。

これも他人に行動や考えに対して自分の価値に直結し、振り回されてしまっているからだと言える。

大切なのは、他人の気持ちや行動を自分の価値として直結させず、目的を失わないこと


他人とは色々な価値観や考えを持っているわけで、そのすべてを理解することは不可能だ。

もちろん、他人を理解しようとするプロセスを否定するわけでもない。

しかし、誰かに対して、「分かってくれない、嫌われているんだ」などと主観で物事を見つめている時、それは他人に振り回されている時なのだろう。

先も言ったように、

他者からどう思われているかで、自分の評価や価値を決めてしまうということは、基準が他者の行動になるから、結果的にその場しのぎの、他者の気分や行動次第で自分が振り回されてしまうわけなのだ。

他者から自分がどう思われているのかを気にする、それ自体は別に問題ではないと私は思う。

振り回され過ぎて辛いというのが問題だと私は思っているからだ。

これは本来の目的である「他人のためになる行動」から逸れている。

「他人のためになる行動」なら、そこに主観ははさむ余地はないのだ。

「他人のためになる行動」とは、

他者がしてほしいことを察知した上で、それに対し、どう行動したら他者のためになるのかということを考えられる力だと、私は思う。

この場合は、他者が喜ぶことだけを行動の選択肢に入れるわけではない、ことだ。

他者が喜ぼうが喜ばなかったとしても、最終的にその行動が、他者にメリットを与えられるかが重要なのではないか、と私は思っている。

(ちなみに、私は、他人のために動くかどうかも結局は個人が決定することにすぎないと思っている。)

もちろん、人のためと考えた上での行動も、完全に、他人の行動や気持ちを予測した上で、行動ができるわけではないのも前提にはおいておかないといけない。

それに他者のために思った行動だったなら決めるのは他者である。

つまり、本当に他人のことを考えられる人は・・・

(完)

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