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フローリストは使わない

 花が好きである。

 とは言っても贈答用以外で花屋に行く機会はあまり無く、家に置く分には、スーパーで買い物をしたついでに売り場レジの側で変色して半額になっているものを買う。SDGs、『このままでは廃棄になるから買わねば』というような矜持は無く、長年の習慣で染み付いたただの癖である。無意識のうちについ買っている。
 花の種類や外見の好みはあまり関係ない。ただ家に花があるという状況が好きで、長年の間、そうしている。

 花の世話はマメではない。
 買ってきた当日に、いつ何処で手に入れたか最早覚えていない花瓶、それに合う高さに切り揃え、氷水に浸すだけだ。そうやってシャキッとした花をキッチンに活けると、満たされた気持ちになる。無惨に切られても咲き続ける有機物の生命力を感じるのだ。
 その後は世話などしないに等しい。日々どこか、料理などの合間に切り戻しもせずに水だけ換えるのみだ。

 百円均一で花持ち剤のような液体が売られていることがある。独身のころや家庭を持つ前などは水を換える度にその『フローリスト』と名付けられた液体を使い、少しでも長く花を持つように世話をしていた。
 しかし近年、それが嫌になってきた。物理的に忙しい、めんどうだ、というのも理由の一つではある。然しそれよりも『朽ちた花が美しいと思うようになった』という理由の方がより強い。

 二週間ほど前、スーパーで花を買った。売られた時点で相当な日数が経っていたのか、花弁からは水分が飛びカリカリに飢えていた。家に持ち帰り、切り揃えて氷水に浸すと、花は鮮やかに茎を伸ばし元気になった。瞬間、ぴちぴちと跳ね回る魚のような生命力を感じた。

 その後はいつものようにほぼ毎日水を換えた。無意識のうちに換えた。最近は忙しく、花をゆっくり見る暇などなく日々は過ぎて行った。
 そして二週間経過した今朝、ふとした時にその花を久しぶりに切り戻した。そのついでに、意味もなく、じっくりと眺めてみた。
 その花は美しかった。朝食を食べながら、働かない頭で、呆けたように見つめた。花弁は干からび、養分などなにも受け付けない状態であった。緑色だった茎は枯れ木のように茶色がかっていた。『この状態の花が好きなのだ』と自ら気づいた。

 スーパーで粗雑に半額の値を貼られ廃棄を待っている時のせつなさも、氷水を浸した時に感じた一瞬の生命力も、今じゃ何一つ感じない。日々を過ごしている間にいつのまにかこの花は生命力を失い、有機物から無機物になっていた。八百年前の武蔵坊弁慶に思いを馳せる。立ち往生ってどういうものだったんだろう、こういうものだったのかな、だとか。

 元来複雑で面倒くさい性格である。その性質からか、人の手によって長持ちさせられ続ける花からは言葉にし難い痛々しさを感じることがある。『咲け』と急かされているような、本人の意志もわからないまま延命措置をされ続けているよう、そんな痛々しさだ。
 けれど今のこの花にはそれを感じなかった。瞬間の生命力の余韻のみ残し、自ら朽ちた花である。自ら咲き、自ら終わっていく。その生命の終わりを、潔くて美しいと感じた。

 少しだけ自分に置き換えて考えた。
 三十も半ばを過ぎたというのに、未だにさまざまな人からさまざまな世話を受けている。けれど世話を受けながらも、主導権は自分にしかないたいうのも分かってきた。世にどんなに煌めいた格言が蔓延っていても、『このように生きる』、と道を決めるの自分しかいない。この花も同じように、自ら枯れる道を選んだのかもしれない。決められた運命に抗わずに生き自ら朽ちた。そういうのは美しいと思う。その茎にも、花弁からも、なにものの助言も受け付けないプライドのようなものを勝手に感じてしまう。

(咲き様に値段をつけられてたまるか。)

 そのように少しだけセンチメンタルな気分になりながらテーブルの花瓶を眺めていたら、『早く準備をしろ』と、至極真っ当な正論を家族にぶつけられた。
 けど、決めるのはいつだって自分だ。

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