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『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』刊行記念 ABC CROSS TALK 01 のメモランダム

『DESIGN AND PEOPLE』

株式会社コンセント発行の『DESIGN AND PEOPLE』。刊行記念として青山ブックセンター本店で開催されたトークイベントの内容をもとに、気づきや問いを書き残す。

デザイン誌『DESIGN AND PEOPLE』は、デザインの在り方を当事者目線から探っていくデザイン誌です。年1回の発行を予定しており、「デザインは世界の一端をつくっていくこと」と捉えて、さまざまな領域を専門とする方々の「対話とエセー」を収録しています。

https://www.concentinc.jp/news-event/news/2023/08/designandpeople-no1/

トークイベントでは、「デザインと教育」という切り口のもと、寄稿者の中から教育者としての顔を持つ方々(渡邉康太郎さん・佐賀一郎さん・ 脇田あすかさん・ 赤羽太郎さん)をスピーカーに迎え、『DESIGN AND PEOPLE』の編集長を務めるコンセントの吉田知哉さんをモデレータとして進行する。

メモランダム

オープニング

文芸誌のようだ、という渡邉さんの総評でイベントは幕を開ける。編集長の吉田さんに対する、佐賀さんのレントゲンのような精緻な検分・尋問が早速展開される。脇田さんは、エセー集と勘違いした結果、一人だけ浮いた感じになった、と冗談めかして嘆く。

たしかに、「対話篇」と「エセー篇」が交互に繰り返される構成は独特。会社や業界や世代を跨ぐ対話は、共通項を見出すだけでなく、あえて差分が明らかになる箇所もあり興味深い。その中でこそ、脇田さんのエセー「十四歳から三〇歳までのメモランダム」は、確かに異質さがあるかもしれないが、であるからこそ、むしろ等身大の言葉が沁みる。

その後、スピーカーが双方向に問いを投げかける形で展開が続く。

佐賀さんへの問い

佐賀さんのエセー「デザイナーの社会的責任」では、イギリスのグラフィックデザイナーであるケン・ガーランドの起草をもとに1964年に発行されたという「ファースト・シングス・ファースト(以下、FTF)」が主題として扱われる。

FTFの内容は、およそ以下のとおり。

大量生産・大量消費が進行した結果、広告が猛威をふるっている。結果、デザイナーは持てる能力や才能を、本当に大切なことではなく、マーケティングや経済機構のために浪費している。たしかにデザイナーは、社会から無関係ではいられない。だが、社会に従順でありすぎてもならない。(中略) 私たちは、社会のなかで、デザイナーという職能を、「より役に立つものや、より長く持続するコミュニケーション」に活かすことができるはずである。

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.33

つまり、旧来の優先順位を逆転させ、大事なことから始めよう、というマニフェストである。

脇田さんは、FTFを知ることで、自身の取り組みを誇りに思えるようになったと語る。アーティストへの劣等感や自己表現しきれないコンプレックスを持っているという言葉も漏らし、その感情についてもぜひ訊いてみたいと思った。(イベント終了後、登壇の方々と会話できる時間が多少設けられていたが、さすがにいきなり尋ねるわけにもいかず、遠目で脇田さんを眺めるに終始した。)

一方で、渡邉さんが表明する違和感にも共感する。FTFに勇気づけられ、また、思想がアップデートされる(1964年以降、3度のアップデートが行われている)ことをカッコいいと思うものの、ムーブメントが残っていることは社会に根付いていない証拠でもあり、嬉しさと寂しさが同居するという。

アーツ・アンド・クラフツ運動や民藝運動においても、消費主義社会や経済至上主義を前提とした、FTFと同様のニュアンスが含まれていると理解している。ただし、やはり国や時代を越えて同様のムーブメントが繰り返し発生しているのはなぜなのか。

「あらゆる歴史的なデザイン運動は、すべてカウンターとしての側面を持っていた。」(p.38)という指摘があり、また、哲学研究者・永井玲衣さんとコンセントの長谷川敦士さんの対話で引用される「デザインはディスコースである」(p.48)という捉え方もある中で、「デザインとは何かから逃げ続ける行為なのでは」という解釈に落とし込んでしまうと、すこし腑に落ちないモヤモヤが残る。

経済では数字が優先され、物語が蔑ろにされることがある。その中で、数字の多い/少ないやうまい/へた以外のものさしを提示することは、教育の現場における学生への後押しにも通ずるはずである。また、渡邉さんも言及した、トリスタン・ハリスが広めた"Time Well Spent"の概念のように、はかる数字の意味を転換する向き合い方はヒントになりうる。だがしかし、そのものさしを用意するために50人の学生との対話を重視している一方、どうしても仕事化することも考えねばならない現実がある、と語る佐賀さんの教育者としての眼差しが刺さる。

"Time Well Spent"については、カウチサーフィンのサービスにおける新たな指標について語られる、トリスタン・ハリスの以下のTEDトークが参考になる。

渡邉さんへの問い

渡邉さんがnoteに記した「つくることへのコンプレックス」にも触れながら、ものを通して語ることへのモチベーションについて、赤羽さんが問いを投げかける。

Takramというデザインのチームの優秀な仲間たちに囲まれていると、「あえてぼくが手を動かすこともないのでは」、「他の人の方が上手にやってのけるのでは」、と引け目を感じてしまうことがあります。デザイナーなのに! よく考えるとおかしな話ですが、でも実際にそう思ってしまうことがある。だとすると、普段からものづくりに携わっていない人は、輪をかけて……?

「つくる」はどこからはじまるか──足かせ、模倣、つくらないことhttps://note.com/waternavy/n/n69191513c0a6

渡邉さんは、つくることを神格化せず、ハードルを下げることが大事なのではないかと返答する。うまい/へた以外の軸として、経験自体が大事だと捉えること。また、つくらずとも見方を変えることで世の中の見え方がアップデートされる現象が好きであり、それはつくることと同じくらい意味を持つかもしれないと語る。

文化人類学者の竹村真一さんから聞いたという、山の神である「サ」から派生して、「サオリ」「サツキ」「サナエ」「サクラ」という語が生まれている、というエピソード。知っているものの知らなさに気づく、不知を自覚する体験のショックと気持ちよさがあると渡邉さんは述べる。

私自身にとっては、一人でなく他者とともにつくることや、つくる行為は形のあるものにとどまらないことが、十分に自然であると認識している。ただし、会話が交わされる中で、その捉え方に対して質問者との間に差分があるようにも感じた。

たとえば、コロナ禍の鬱屈とした日々において、誰かの寄り添うような語りをPodcastで聞くことで、心が救われた気持ちになったとする。そんな出来事においても、受け手という他者がいるから成り立つ表現行為であり、また、何か目に見える造形が現出したわけではない。だがしかし、それでも関係性や意味づけに変化を与えていることには疑念がなく、十分に「つくりあげているもの」と捉えてよいのでは、と個人的には思う。

脇田さんへの問い

失恋や結婚の経緯までが赤裸々に綴られた脇田さんのエセー。実は、当初は「デザインと絵」というオーダーだったと明かされる。また、もともとは過去の開示を記すつもりはなかったが、仕事に無関係ではない事象のため端折れなかった、という裏話も語られる。

2013年3月と2014年6月のエピソードに登場する人物が、実は同一であったことが明らかになるくだりは、"書かれなかった言葉"にスポットライトがあたるアフタートークならではの醍醐味を感じられた。過去の意味づけは、未来によって変わる。社会学者のマーシャル・マクルーハンが提唱したという、「社会のバックミラー視」とも重なる見方を改めて感じ入る。

また、多少脱線するものの無理やり付け加えるのであれば、"語られた言葉"と"書かれた言葉"のあいだにも、印象の差分があるのだと思う。後述する赤羽さんと光嶋裕介さんの対話は、光嶋さんがしゃべりながら考えることで、実は3時間にもおよんで繰り広げられたという。特に対話のパートにおいては、語り手の組み合わせや環境に応じて、そのような独特のグルーブが発生していたことに、文字を通して思いを馳せる。

ここで、話題を本筋に戻して、一つの問題意識を記載したい。デザイン・美術の教育やキャリアを考える中で、「"正統な"教育」「"王道の"キャリア」と言う表現を知らず識らずのうちに使うことで、無意識に壁を築いてしまっているような感覚がある。永井さんがかつて、哲学に対して「考えることから阻害/疎外されている」(p.52)という想いがあったと語ることと同様に、プロではないと自認する人たちに対して、デザインすることから阻害/疎外されているという心情を広げてしまわないだろうか。

もちろん、一定のエキスパートによるデザイン活動はある。一方、Takram代表の田川欣哉さんとコンセント取締役の大﨑優さんによる「デザインと経営」の対話の中で指摘されるように、「一般職にある人たちのデザインリテラシーを上げる」(p.13)ことへの重要性や、「デザイン業界の人たちは、相当な勢いで仲間を増やさないといけない」(p.16)という課題も存在する。

そのために、教育者と学習者、また、デザイン教育を受けた人間と(まだ)受けていない人間とで、それぞれどのような向き合い方ができるのだろうか。

赤羽さんへの問い

赤羽さんの肩書である「サービスデザイナー」。脇田さんの問いをきっかけに、そもそも「サービスデザイン」と何か、という紹介から始まる。

赤羽さんと建築家の光嶋裕介さんとの対話は、内田樹さんのために光嶋さんが設計したという、神戸にある合気道道場の凱風館で行われた。そこでは、サービスデザインと建築との共通項を見出すような言葉が交わされる。

対話の冒頭の記載で、建築家とサービスデザイナーがハード面とソフト面のデザインとして対比されることに、個人的にはまず違和感があった。すなわち、建築にはソフト面の要素も多分に含まれているはずであり、まさに光嶋さんが語る「ビルディングと建築の違い」という指摘が言い得ていると感じる。

ビルディングが建物そのもののことだとすれば、建築とは建築家というプロフェッショナルがコンセプトを持って立てた意思のあるもののこと。

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.111

また、衣食住のうち、「衣と食に関してはみんな言葉を持っている」(p.112)のに、「どうして建築を一般的に語れないのか」(p.112)、という光嶋さんの問題提起が印象に残った。

そこには、選ぶ機会の多寡と、つかう視点・つくる視点の差異があるように思う。住居を選ぶ機会は、よほど引越を繰り返す葛飾北斎のような人でない限り、人生の中で数えられる回数しか訪れない。一方、何を食べるか・何を着るかは、我々が常日頃から対峙している選択だ。また、つかう側でなく、つくる側に立つことで、解像度が劇的に向上することがある。日々の炊事とは異なり、建築においてはなかなか自身がつくる側に回ることはないので、せめてインテリアについては語る言葉を増やすことはできても、建築の空間全体をつくる視点にまでは理解が及んでいないという実感がある。

トークイベントでは、赤羽さんが吐露した「大学での講義を楽しみきれていない」という話を深堀りする方向へと転換する。すなわち、リモートの講義では、通信料の制約から学生全員が画面をオフにしている中で自分だけがしゃべり続ける状態が多く、また、受講者の半分くらいは単位を取得できればよいというスタンスであるため(スピーカーの各位も、自身の学生時代を振り返ると身に覚えがあるということで苦笑い)、はたして空回りしていないだろうか、という感覚であるという。

みんなが揃って興味を持つものはないからこそ、そのとっかかりを多くつくるように意識している、と渡邉さんは応える。たとえば、社会学を考えるときに、社会学者である岸政彦さんの『東京の生活史』だけでなく、都築響一さんの『捨てられないTシャツ』、クリスチャン・ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」、七夕の短冊など、社会学にとどまらない内容を集める。また、学生やデザインをメインの仕事としていない社会人向けの講座においては、より雑多なもののほうが受けがよい、とも指摘する。

より目的意識が明確で、短期的な成果を目指している人々のほうが、学びの熱量が高いことはたしかにあると思う。一方で、教育においては、短期的な収穫を目指さない、むしろ発芽するかもわからない種を蒔く行為も大事だと感じる。スピーカーの方々もかつて友人や知人の誘いでたまたまその分野に足を踏み入れたように、そもそも学問やテーマとして領域の存在を知らないとき、偶然の出会いがその領域へと誘ってくれることは多分にある。すなわち、興味がない・わからないといって拒絶されてしまいがちな状況に対して、わからなさに対峙する姿勢を育むこと自体が教育においては必要になるのではないだろうか。そして、その姿勢こそが、本書のキーワードである「対話」につながるはずであると私は考える。

まさに、田川さんが理想として語るピーター・ドラッカーの言葉に現れるように、(必ずしも職業を前提とする必要はないが、)まだ見ぬ領域への補助線を提示することが、人材育成における重要な観点なのだと思う。

「すでに定義の済んでいる職業に従事する人を育てるのではなく、いまだクリアには定義されていないような、未来の職種、職業に携わるような人たちを育てていくべきなのである」

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.19

イベント外のメモランダム

書籍は非常に興味深く、さらに、トークイベントを通してその解釈をより広める・深めることができたと感じる。

イベント内での話題に上がることはなかったが、書籍冒頭の田川さんと大﨑さんによる「デザインと経営」の対話も非常に面白かったので、多少のメモを記す。

副題の「デザインは主語じゃない」は、この対話の冒頭に述べられた田川さんの言葉をもとに名付けられている。ただし、文中の表現は「デザイン経営の主語はデザインではない」(p.9)であり、対話全体の文脈を含めて(悪い意味の)誤読がないようには留意したい。

Takramとコンセントの両社の方向性の違いが浮き彫りになる箇所がある中で、どちらが良い・悪いではなく、やはり自分は田川さんおよびTakramの考え方が好きだと感じ入る。特に、デザイン活動に従事している田川さんの口から、自己批判的な以下のような言葉が語られる姿勢に、非常に共感する。

本当に大事なことは、デザインのプロたちが、デザインを経営のなかの他の要素と並列して、俯瞰的に理解できているか

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.16

デザイン思考を神格化しないほうがいい

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.17

デザインを特別なものと考える態度自体が、デザイン以外の人たちに相当壁をつくっている

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.26

また、永井さんと長谷川さんの対話「わからないからいつまでも」についても少しだけ触れておく。この対話では特に、永井さんが語る哲学への向き合い方の数々が、非常に印象に残る。

  • 「哲学は何もバカにしない」(p.46)

  • 「私たちがよく良く考えるためには、大丈夫だと思える場が必要」(p.47)

  • 「私にとって、哲学は対話をする理由」(p.48)

  • 「哲学の懐の深さは、同時にみんなのものになれること」(p.49)

  • 「どこが違うのか、どこだったら私たちは互いにつながっていけるのかを一緒に考えていきたい」(p.55)

  • 「対話はとても人工的なものだと思っている」(p.56)

  • 「私にとってわからないことは希望」(p.57)

  • 「哲学は世界の奥行きを信じること」(p.58)

など、枚挙に暇がない。

それらはまさに、トークイベント内の話題とも都度合流するものであり、地下水脈のように、本書に通底する要素だったのだと思う。

あとがき

最後に、よりよい(この場合はより正確な)方向を目指すために、誤植と思われる箇所を記載しておく。この場に記載することで修正につながるかはわからないが、いずれも初版第1刷を参照している。

一躍時の人となったガーウンドは、

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.35

インターネット黎明期ならでは自由な空気があって

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.184

林さんのデザインは、いったい誰のものなんでしょうか?、

『DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1』p.241

本文中にも、もしかしたら誤植や解釈の誤読が含まれているかもしれない。そうだとしても、哲学のような懐の深さを携えながら、互いがその違いを見つめ合えたらよいと思う。

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