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【武家と公家の攻防①】

日本の歴史は「武家」と「公家」の攻防の歴史でした。今回は「公家」が「武家」に政権を奪われ、天皇による中央集権国家が崩壊していった過程について考えます。
まず、時代を下記の通りに区分します。 

・平安時代(794〜1192)
・鎌倉時代(1192〜1333)
・室町時代(1336〜1573)
・戦国時代(1573〜1590)
・江戸時代(1603〜1867)


上記の内、平安時代は「公家」の時代、鎌倉時代から江戸時代迄は「武家」の時代です。全ての期間、天皇は存在していましたが、鎌倉時代以後は武家が政治を行う「幕府」が開かれました。「武家の「将軍」が征夷大将軍となり700年あまりにわたり政治の実権を握っていました。

平安時代(794〜1192)はほぼ400年続いた天皇と貴族が政治権力を持った時代です。天皇中心の国家体制でした。天皇やその姻戚者である貴族を「公家」と言いますが、平安時代は「公家」の時代でした。
400年近く続いた平安時代を4区分にして考えます。

①天皇・貴族が政治権力を持っていた時期
②藤原氏(摂政関白)が力を持った摂関政治期
③白河上皇らが力を持った院政期
④平清盛が力を持った平氏政権期

「摂関政治」と「藤原氏」について考えます。
「摂関政治」というのは藤原氏が天皇の外戚となり、「摂政」「関白」という役職を独占して権力を握った政治のことです。
「外戚」とは、「天皇の母または嫁による一族」と定義できます。
簡単に言うと、自分たちの子供を天皇家に嫁がせて皇后(天皇の嫁)、皇太后(天皇の母)にすることで官職を独占し、政治の主導権を握ったのです。
「藤原氏」は飛鳥時代の「中臣鎌足」を祖とする氏族です。藤原氏に属する苗字は下記の通りです。

①近衛家
②鷹司家
③九条家
④二条家
⑤一条家


この5つは「五摂家」と呼ばれ、公家(皇室)の家格の頂点に立った家柄です。
「摂政」「関白」「太政大臣」という役職になれるのは上記の五摂家に限られていました。

平安時代の後期について、下記の通り3区分にして考えてみます。


①院政期
②平氏政権期
③源平騒乱期

後白河天皇(1127〜92)について考えます。
平氏政権の前には「院政」の時代がありました。「公家」の時代です。そして、平氏政権の後には「鎌倉時代」が続きます。「武家政権」の時代です。
つまり、後白河天皇(法皇)は「大和政権」以来続いてきた天皇中心の「公家政権」の最後の人物になります。もちろん天皇家はその後も連綿と続き、令和の現代まで続いています。けれど、かつての政治力を回復することはありませんでした。法皇の没年は1192年です。源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いたとされる年です。皮肉なものですね。歴史の潮目の変化を象徴するかのようです。

「武家の台頭」について考えます。
「武士」は武装集団ですが、「桓武平氏」、「清和源氏」と言うようにその棟梁は天皇及び皇室の姻戚者であったと思われます。
「北面の武士」は院政期の白河上皇の時、院御所の警備を担当しました。このことが武士が政界に躍り出る足掛かりとなります。その「北面の武士」の1人に平忠盛(1096〜1153)がいました。
平忠盛は有名な平清盛(1118〜81)の父です。平氏繁栄の基礎を固めた人物です。
平氏政権は京都の六波羅をその根拠地としました。
三十三間堂の名前で知られる「蓮華王院」は1164年に後白河法皇が平清盛に命じて創建させた天台宗の寺院です。「蓮華王院」は六波羅からほど近い場所にあります。

「平氏政権」について考えます。
「平氏政権」は海との関わりが深い一族です。

①平忠盛
・越前守に任じられ、日宗貿易に注目して独自に交易を行う。
・山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢(1129)され、瀬戸内海の海賊征伐にあたる。
②平清盛
・太宰府の役人に任命され、博多に日本で最初の人工港を築き貿易を本格化させる。
・瀬戸内海の航路整備・入港管理を行なって、瀬戸内海航路を掌握する。
・摂津国福原の外港として大輪田泊を拡張して貿易振興策を実施。
・安芸宮島の厳島神社の整備を行う。


「平氏政権」が九州、中国地方、近畿地方の海域で幾つかの拠点を作り、貿易により財政基盤を築こうとしていた事がわかります。

「日宋貿易」について考えます。
「日宋貿易」は、平氏が築いた博多、宮島(瀬戸内海)、福原(現在の神戸)を拠点として中国の宋(960〜1279)と行なった交易のことです。この貿易により稼ぎ出した財力が平氏政権の基盤となりました。
交易の相手国であった中国の宋王朝は北方の異民族に苦しめられた王朝でした。
女真族の金に攻められ続けた宋は1126年の靖康の変により華北・中原の土地を失いました。南宋(1127〜1276)が成立し、臨安(現在の杭州)を都としました。都の移転に伴う動乱期にあった南宋では、華中・華南に急激に人口が集まり森林資源が枯渇し疫病が流行。寺院造営や造船、棺桶製作のため大量の木材が必要とされました。周防国(現在の山口県)の木材が大量に輸出されたとされています。
つまり、平氏政権勃興期に隣国の宋では異民族との抗争があり、新しい国家建設のため大量の資源が必要とされていたのです。言わば、日宋貿易は宗王朝の騒乱に伴い特需景気を引き起こしたのです。
そのことが平氏政権の財政基盤を盤石なものにし、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言わせる権勢をもたらしたのです。

また、平氏政権は「摂関政治」の時代に藤原氏が行なった「外戚政治」の手法を踏襲しました。要するに、「武家」による「摂関政治」です。そして、平清盛は五摂家しかなれないとされていた「太政大臣」に「武家」として初めて就任しました。つまり本来「武家」であった平氏は公家化してしまったのです。このことは源頼朝が起こした武家政権の「鎌倉幕府」と比較して考える必要があります。

平安時代がどのように終わって行ったのかを考えます。それは「公家」の時代の終わりについてであり、本格的な「武家」の時代の初まりについてです。

院政の全盛期に後白河法皇の前に立ち塞がったのが、平清盛が棟梁となる平氏政権でした。法皇は平清盛と対立し、平氏政権打倒を目録んでいました。しかし、清盛との対立抗争に破れて1179年に幽閉されてしまい、院政も一時停止されます。その後、平清盛は福原遷都に失敗して失意の中1181年に亡くなります。法皇は院政を再開させ、平氏政権打倒のために源氏の勢力を利用します。

「源頼朝」について考えます。
本格的な「武家政権」である鎌倉幕府を起こした頼朝にとって、打破するべきものは当初ふたつありました。それは下記の通りです。

①平氏政権
・「武家」間のライバル抗争
②後白河法皇
・「公家」政権との抗争


上記①②を討ち果たさなければ、「武家」の独立は達成されないと考えていたのではないでしょうか。
異母弟である「源義経」は戦場で天才的な才能を発揮して、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで平氏を破り、壇ノ浦の戦いでついに平氏政権を滅亡させます。その際に頼朝が宿敵と考えていた後白河法皇から無断で官位を授かってしまいます。このことが兄弟争いのきっかけになりました。

平安時代末に起こった事件を年代順に並べてみます。

①壇ノ浦の戦い(1185)
②守護・地頭の設置(1185)
③源義経の討伐(1189)
④後白河法皇の崩御(1192)
⑤鎌倉幕府の成立(1192)


これらの事件の背景には源頼朝と後白河法皇の思惑がありました。
①については、後白河法皇が対立していた平氏政権打倒のため源氏勢力を利用しました。②③については、源頼朝が自分の意にそぐわない義経を排除するために後白河法皇の承認を得て実施しました。そして、④⑤の事件で「公家」と「武家」の勢力関係が逆転していきます。

源頼朝は「公家文化」と距離を置いた政権を作ろうとしていました。ライバルの「平氏政権」が天皇家の外戚となり公家化して行った姿を見ながら思うところがあったのでしょう。
「武家」の独立性を確立するためには、天皇家(公家)との結びつきを変える必要があったのです。官位を授かって「公家」に従属させられる従来のような関係性を打ち破ろうと考えていたのでしょう。
無断で後白河法皇から官位を授かった義経の行為が、頼朝には決して許す事の出来ない越権行為に映ったのかもしれません。そのため、頼朝には弟の義経も平氏政権、後白河法皇と同様に討ち果たすべき存在になって行ったのではないでしょうか?

「武家」と「公家」の抗争の歴史を考える上で、承久の乱(1221)は大変重要な事件です。
「公家」の時代の実質的な終焉は、「鎌倉幕府の成立」ではなく「承久の乱」で確定しました。幕府(武家)の朝廷(公家)に対する優位が確立したからです。承久の乱は後鳥羽上皇(1180〜1239)(院政1198〜1221)が西面の武士を用いて倒幕を企てた反乱でした。敗れた後鳥羽上皇は島根県の隠岐に19年間配流されその地で亡くなりました。
天皇家が「武家政権」に戦いを挑んだのです。そして、敗北しました。その意味は大変重いものがあると思います。
「承久の乱」で「武家」に反旗を翻した後鳥羽上皇が敗れて隠岐に配流されたこと。このことが「大和政権」以降続いてきた「天皇中心」の中央集権国家体制の「終焉」だったと言えます。

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