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【武家と公家の攻防②】

鎌倉時代がどのように終わりを迎えて行ったのかを考えます。
鎌倉時代の「終焉」は、承久の乱(1221)で失墜した天皇家(公家)が再び「武家政権」から権力を取り戻そうとした動きから始まります。
「天皇家(公家)」再興の動きが鎌倉幕府の滅亡、室町幕府の成立に繋がっていきました。

鎌倉時代末期の天皇家の動きについて説明します。
後嵯峨天皇(1220〜70)には2人の子供がありました。長男は後深草天皇(1243〜1304)です。しかし、後嵯峨天皇は長男よりも次男である亀山天皇(1249〜1305)をより寵愛しました。後嵯峨天皇は兄の後深草天皇に譲位を迫り、弟の亀山天皇の皇子を皇太子と定めて後継者としました。
後深草天皇はその親である後嵯峨天皇に排斥され、弟の亀山天皇と対立していくことになります。これが皇統の分裂を引き起こしました。

①持明院統
・後深草天皇(兄)から発した皇統。現在の仙洞御所のあたりを院御所とする。
②大覚寺統
・亀山天皇(弟)から発した皇統。大覚寺をその院御所とする。

鎌倉幕府はこの対立の解決策として2つの皇統が交代で皇位につく、両統迭立(りょうとうてつりつ)案を提示しました。しかし、対立は解決には向かいませんでした。

後醍醐天皇(1288〜1339)について考えます。長い日本史の中で独特の「存在感」を持つ人物です。
後醍醐天皇は両統迭立の時代には大覚寺統に属していました。つまり、後嵯峨天皇に排斥された弟の亀山天皇の皇統に属し、亀山天皇の孫にあたります。
天皇親政を目指して鎌倉幕府打倒を計画し、2度の討幕活動を行いました。

①正中の変(1324)
②元弘の変(1331)

この2回の討幕計画は失敗しました。しかし、世情が不安定となり討幕のため各地で有力御家人が挙兵するようになり1333年に鎌倉幕府は滅びます。
後醍醐天皇の討幕計画が契機となって「鎌倉幕府」を倒したのです。つまり、「天皇家(公家)」が「武家政権」を破ったのです。

後醍醐天皇の討幕計画に連動して挙兵した武将は下記の通りです。
①楠木正成(〜1336)
②新田義貞(〜1338)
③足利尊氏(1305〜1338)
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の親政」が行われます。それは天皇の復権を目指す政治でしたが、討幕に貢献した武士たちには不満の多いものでした。鎌倉幕府の倒幕に貢献した足利尊氏も大きな不満を持つようになり、建武政府から離反することになります。
尊氏は後醍醐天皇の対抗勢力である持明院統から光明天皇(1321〜80)を擁立して新たな幕府を開き反乱を起こします。こうして建武の親政は1333〜1336年のわずか3年で崩壊します。1336年、後醍醐天皇は京都を追われ、奈良県の吉野を拠点とする「南朝」を起こします。足利尊氏が擁立した光明天皇の持明院が「北朝」となり、「南朝」とおよそ60年間抗争を続けました。1392年に南北朝が合体することとなり、「南朝」は廃され持明院統の天皇(北朝)が正当な皇統とされて今日に至っています。
「南北朝の騒乱」の時代に最後まで後醍醐天皇に従って戦った①楠木正成②新田義貞は明治以降、忠臣として日本人から尊崇されるようになりました。逆に、足利尊氏は天皇を裏切った奸臣として評価されなくなりました。後醍醐天皇、楠木正成は朱子学の熱心な信奉者とされています。鎌倉幕府討幕計画と建武の親政にかけての「行動原理」は、朱子学の大きな影響があると言われています。朱子学については改めて説明します。

室町幕府成立後、徳川幕府成立に至る時代では、「武家」が完全に主導権を握っています。その後の江戸時代においても同様で、「公家」は存続はしていますが、「武家政権」と対立できる力をもはや持っていませんでした。しかし、ペリーの浦賀来航(1853)を契機に「尊王攘夷」思想が急速に広がり、「倒幕」と「天皇の復権」が叫ばれました。
後醍醐天皇が鎌倉の「武家政権」を敗って行った「建武の新政」の終期は1336年です。
その年から「大政奉還」(1867)までの期間はおよそ530年です。その間、「公家」は日陰の歴史を歩みました。しかし、実はその陽の当たらない長い期間に「天皇」こそが正当な日本の元首なのだとする思想が育っていたのです。賀茂真淵(1697〜1769)から始まる「国学」、徳川光國(1628〜1700)から始まる「水戸学」がそれにあたります。そして、その思想の根幹となるのが朱子学であり、中国南宋の学者朱熹(1130〜1200)の「大義名分論」です。

「朱子学」について考えます。
「朱子学」は南宋の朱熹(1130〜1200)によって儒教の新しい学問体系とされます。その主な教義は下記の通りです。
①大義名分
・君と臣との関係について、臣民として守るべき基本的な道理。
②有識故実
・朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事・官職などについて研究する学問。

「陽明学」について考えます。
幕末に活躍した人たちには陽明学の影響があります。
陽明学は中国の明王朝期に生きた「王陽明」が起こした儒教の一流派です。その思想の柱は下記の通り。
①知行合一
②致良知
③心即理
影響を受けた人物に、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、大塩平八郎、最近だと三島由紀夫がいます。特に「知行合一」の思想が重要だと思います。
「行動を伴わない知識は未完成である」

「国学」について考えます。
・日本の古典を研究し、民族精神の究明に努めた学問。
賀茂真淵(1697〜1769)に始まるこの学問の代表的な学者は下記の通りです。
①本居宣長(1730〜1801)
②平田篤胤(1776〜1843)
・復古主義・国粋主義の立場を強め、復古神道を大成する。平田派国学は農村有力者に広く信奉され、「草莽の国学」として尊王攘夷運動を支えました。代表的なこの2人の国学者は朱子学批判者であったとされています。

「水戸学」について考えます。
・水戸藩の『大日本史』編纂事業を中心に興った学風。
①尊皇論(前期)
・徳川光國の下、朱子学の大義名分論に基づき「尊皇論」を展開する。
②攘夷論(後期)
・徳川斉昭を中心に天皇を尊び覇者を排斥する理論から「攘夷論」を展開する。

「水戸学」の中で展開された尊王論について考えます。
「尊王論」
・天皇を尊ぶ思想。儒教を国教とした江戸時代に広まり、さかんに大義名分論が説かれた。江戸後期には天皇を幕府より上位として絶対視する考え方が強まった。攘夷論と結びついて討幕運動の基盤となった。
代表的な学者は下記の通りです。
①藤田東湖(1806〜55)
・徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、藩校弘道館を設立。尊攘思想を説き、水戸学の中心となる。
②会沢正志斎(1782〜1863)
・藩主徳川斉昭の藩政改革に尽力。尊攘論を唱道する。

「尊王攘夷思想」について考えています。
その思想は中国の宋王朝期に起源があります。宋王朝は異民族の侵略に大変苦しんだ王朝です。北方には異民族である「金」「西夏」があり、攻防戦が繰り返されました。有名な「岳飛」は南宋の武将であり、異民族「金」に奪われた国土回復のために戦いました。
尊王攘夷は「王を尊び夷を攘う」という思想で、日本の幕末期に徳川幕府打倒のために大きな支持を得る思想となりました。

江戸末期にどうして「尊王攘夷論」が爆発的に起こって来たのかについてずっと不思議に感じてきました。
「公家」と「武家」の抗争の歴史を振り返りながら、「朱子学」「国学」「水戸学」の流れがあったことに気が付きました。その一連の流れについて少し掘り下げてみたいと思い投稿をさせてもらいました。

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