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『お苦しみはこれからだ        オキナワの動物病性鑑定記』

 まえがき
 この本のキーワードは「獣医学」と「オキナワ」そして「映画」である。
 この異質な取り合わせを思いついたのはほかでもない。わたしが現在の職業に就く前には映画の世界で身過ぎ世過ぎをしようと思っていたからである。
 古都首里にあった『有楽座』という映画館の向かいで生を受けて、「孟母三遷」の故事に疎かった母親のおかげで、爾来じらい転居させられることもなく、この娯楽の殿堂(古いね、また君も)という映画を享受する環境に置かれてきた。この邦画を中心とした劇場は時には洋画も上映し、また、群雄割拠していた頃の沖縄ウチナー芝居もしばしば興業していたが、わたしが中学の時についに世の趨勢とともに命脈つきた。
 沖縄にも永く住んでいた芥川賞作家、池澤夏樹訳のジェイムズ・ヘリオット著『Dr.ヘリオットのおかしな体験』(集英社)の訳者のことばにはこう書いてある。〈人は誰でも職業を持っているし、年をとればその職業を通じていろいろな体験が蓄積されるから、あるいは本の一冊くらいは書けるかもしれない。しかしそうやって書いたものがふつうの読者にとっておもしろい本になることはまずないのではないか。・・・・・はじめてこの本を読んだ時、獣医とはなんとうまい立場にいる奴が本を書いたものかと、まずその点に感心した。無数の動物たちと毎日つきあっているのだから、なかにはおかしなのもずいぶんいるだろうし、そのうちで特に愉快なのだけ集めても材料はふんだんにあるわけだ。・・・・・こう考えれば世界中の獣医がみんな本を書かないのが不思議なくらいだ〉
 これに触発された理由わけではないが、家畜保健衛生所、家畜衛生試験場と動物の保健衛生、病性鑑定業務で糊口をしのいできて、はや四分の一世紀になった。ここいらへんで、なにがしかの歳月の余録みたいのがあるのではないかと自問自答してみた。
 近年、0157、オウムによるボツリヌス毒素の研究、9・11ショックの国内版ともなった千葉県でのBSE(牛海綿状脳症)の新聞報道、近隣の東南アジアで猖獗しょうけつをきわめている高病原性鳥インフルエンザなどなどわれわれを業界を取り巻く環境もかまびすしくなっている。話題はこうしたパンデミックなことに加えて、日常遭遇した事例を中心にまとめてみた。サブタイトルにあるとおり、ほとんどはわたしが直接あるいは間接に関わったものを記載したが、一部については先達に追懐を願ったり、理解を深めるために全国の症例も参考に供した。
 近年、さまざまな分野でコラボレーションなるものが流行はやっているが、本書も異種競演になろうか。本の題名、はもちろん敬愛する和田誠著『お楽しみはこれからだ―映画の名セリフ 』のオマージュである。映画がさまざまなジャンルで形成されているように、各話の内容はそれぞれのテーマによって、語り口を変えて表現してみた。「裁判劇」、「落語」、「艶笑譚」、「ミステリー」、「コメディ」仕立てのものをちりばめてある。
 巻末には、各話の原題ともいえる本物の映画タイトルを記載した。映画好きな人もそうでなかった人も回想いただければ幸いである。こうして並べてみるといささか古い映画が多いのには驚かされる。しかし、やはり昔の邦題のほうがよかった。やはり、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では手の下しようがないもの。
 わたしを鼓舞してくれた、前出の訳者のページをめくると以下の文章が続くことが、最近になり判明した。〈けれども、実際の話、おもしろい本を書くには良い材料のほかに才能というものがいる。文学的に素人ではひとりよがりになるに決まっているし、読者はついていけない。〉
 もはや、取り換えしはつかない。タイトルを表象するような心境になっているが、このまま押し切ることにした。
 各話は本書のコンセプトのためか、唐突に「映画」の話が本題に挿入されるが、これはミュージカルで出演者が突如、歌や踊りを始めるようなものと同類である。感情の発露がそうさせたものと寛容な精神ビューティフル・マインドで接していただきたい。
 この本はわたしの専門である獣医細菌学の分野の記載については、著者なりに正確を期したつもりであるが、不備な点や思わぬ間違いもあるに相違ない。本書を頼りに獣医師国家試験の学説問題や第六話を座右にして司法試験に取り組む諸賢があらわれないことを祈る。
 願わくば読後、博雅の士の教えを乞うことができれば望外である。
          2007年3月 
          ちあきなおみ歌う『小春おばさん』を聴きながら
                                著者

目次
第1話  牛の尾を掴む男達
第2話  剖検者たち
第3話  かくも短き不在
第4話  LOCKJAWS  ロックジョーズ
第5話  青春の蘇鉄
第6話  怒りの葡萄球菌
第7話  何がジューンに起こったか!
第8話  復習するは我にあり
第9話  O157は殺しの番号
第10話  91/2
第11話  ロッキーの謎
第12話  八月の濡れた床
第13話  黒牛・白牛
第14話  嫌われ胞子の一生
第15話  毒薬と令状
第16話  ドブネズミと人間
第17話  ミツバチのなげき


#映画 #創作落語 #獣医学 #オキナワ  


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