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『エヴァ』から見る間違った自然保護

どうも。Naraと申します。今回は国民的アニメ、エヴァンゲリオンから見て取れる、間違った自然保護への批判について書き留めたいと思います。

新世紀エヴァンゲリオン。一見すると人類の機械文明を称えるようなロボットアニメですが、その裏には総監督、庵野秀明の人類に対する静かなる怒りと自然への認識が隠れています。

エヴァンゲリオンの大まかなストーリーとしては使徒と呼ばれる正体不明の生命体と人類の開発したロボットである人型汎用決戦兵器エヴァンゲリオンの戦いを描いたものです。

ですが実はこのロボットの中身。ロボットではなく使徒と呼ばれる生命体のコピーなのです。実は人間が作り出したロボットであるエヴァは自然という絶対的な創造主の力の上でこそ、成り立っているものだったという訳なんです。

そして使徒は生命の実というものを内包しており、人間は知恵の実というものを内包しているという設定なのですが、なんと人類も第18種類目の使徒なのです。
人類と使徒は見た目と内包する実は違うものの、同じ生命体であり、共に自然の一部なのです。

このエヴァンゲリオンの2つの設定から見える批判とは何なのでしょうか。

それは人間と自然を切り離して考える二元論的な価値観に対する批判なのではないでしょうか。

みなさんもなんとなく無意識のうちに人間と自然は全く別のものだと考えていませんか?

例えば皆さんのご自宅の庭。緑が欲しいからと言って何か植えられてたりしますよね。でもその植物の手入れの際に「雑草」を抜いたりしてませんか?

この「雑草」という区分。この区分の存在自体が、人類が自然の外から自然をジャッジする、という行為の現れではないでしょう。

当たり前の事ですが、今の人類の文明は全て自然のものを元に作られています。動植物の死骸、鉱石。大概これらが加工されて作られた文明です。 それにもちろんの事ですが、私達は指パッチンで物質を生み出すことなどはできません。なので人類は資源のない所にいけば何も生み出すことは出来ない。

全て元から地球にあったものを活用して適応してきたのです。こうやって考えてみると人類と自然の違いというのは実に軽薄なものだと気付かされます。

人間は自然の延長に立っているのであって、自然と別物の存在ではないのです。そして人類の文明は自然という偉大な土台の上にあってこそ、成り立っているものなのです。

エヴァではこの辺りのことを、凄く上手に描いています。

使徒と戦うロボットが実は使徒のコピーであったり、人類も実は、正体不明の「バケモノ」の使徒の1種であったり。

そのエヴァで批判されている、人間と自然を切り離す二元論。実は自然保護の領域にも悪しき影響を与えています。

最近は減ったようですが、昔は現地に存在する生態系を無視して、外来種の植物を植樹したり。人間から見て可愛らしい動物ばかり保護されて、サメのような「可愛らしくない」動物がほとんど保護されなかったり。

今の自然保護にはまだまだ

「自然がかわいそうだから助けてあげよう」

という雰囲気が漂っているような気がします。大前提として人間も自然の一部ですし、人類は自然を区別する立場には立っていません。そして地球が破壊されて真っ先に困るのも人類です。

そこを勘違いしてる人がやはり多い。今の地球は1つの小宇宙であり、アフリカのサバンナの生態系で起こっていることと同じです。人間は決して自然の生態系から抜け出せてはいない。全ては繋がっています。

この人類を含めた自然というものを、全体論的に捉えることが出来なければ、人類に未来はないと断言できます。

またエヴァの監督、庵野秀明と大きな繋がりを持つジブリ作品「風の谷のナウシカ」では、まさに間違った自然認識から行われた間違った自然保護によって破壊された世界が描かれています。ですがこの本質的テーマが描かれているのは漫画版だけですので、是非漫画版も読んでいただきたい。

またこのエヴァの持つ自然観は、他のジブリ作品にも通ずるものがありますので、今度ジブリ作品を目にされる機会がありましたら、深いテーマを探ってみても面白いかもしれんません。

ではでは

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