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ドネツクはどん底


いつもどおり朝8時にかかってきた電話に叩き起こされる。被拘束者の母親からの電話だ。最近は彼女たちからの電話で目をさますことがもっぱらだ。彼女たちの大半は年寄りであるせいなのかどうかはわからないが、例外なく朝早くに電話してくる。悲しみと失望が入り混じった声で、「刑務所へのアクセスは手に入れたのか(刑務所には行けるようになったのか)」と日課のように確認してくるのだ。私はバツが悪そうに「残念ながら・・・」というフレーズから返答を始める。口癖になってしまい、何も考えずに電話に出てしまった時には自動的にこの言葉が出てしまうぐらいだ。「とにかく出来ることはなんでもやってくれ」と言われる。「出来ることは全てやっているが、良い答えは未だ来ない」と答える。このやりとりを何度繰り返したことだろう。お互いこのやりとりにうんざりしているのだろうが、それでもこの会話で一日を始めないことには、「続き」は始まらないのだ。彼女たちも、私も。

申し訳無さそうに会話を終えた後は、朝食に入る。寝ぼけている頭をロシア語で無理やりエンジンをかけたのですっかり眠気は醒めているのだが、気分はもちろん良くない。牛乳で煮た麦粥にスライスしたバナナをいくつか乗せ、その上にシナモンパウダーを振りかける。バナナが思った以上に大きく、乗り切らない分はそのまま口に放り込み、ベチャッとした麦粥と共に咀嚼しながら胃に流し込む。冬に差し掛かった窓越しに見える空は、あいも変わらず灰色で憂鬱さに拍車をかける。こんな朝のシークエンスにはすっかり慣れたものだが、頭の片隅になにか澱のようなものが溜まっていき、それが徐々に固まり、重くなっていく気さえ覚える...

唯一許せることは、朝の空気が悪くないことだ。昼になると、息も絶え絶えな都市の血流をなんとか止めまいと工場が動きはじめ、当り一面にスモッグを撒き散らす。洗濯物を外に出そうものなら、煤だらけになってしまう。朝の数少ない時間だけは、石炭の悪臭から解放され、ドンバスがもたらす工業的ノイローゼから逃れることが出来る。そんな喜びも束の間、工場稼働を知らせるけたたましいサイレンと共に露と消えてしまうのだが。

事務所では "同志" のボリスと廊下でよく出会う。インスタントコーヒーを飲みながら繰り出してくるお決まりの挨拶に、これまたお決まりの挨拶で返す。彼もまた私の変わりのない返答に期待しているのだ。

「調子はどうだ?(Как дела?)」「くそったれだよ! (В жопе!)」

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