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晦渋の怪獣①

 がおー。アホみたいなダジャレができました。下世話なものはダジャレ、高尚なものは掛詞です。
 おはようございます、ナリカワです。がんばって文章を書こうと思えど、良いトピックなどそう見つかるものでもなし。正直、日記みたいなよしなしごとなので意味のないことをわめくだけで良いのですが、やはり世間の目につかぬとも限らないのでそれなりに中身のあることを言いたいよなという恥じらいが邪魔をしています。
 ですが、ふとこれまで出した文章をふり返ったとき、どれもこれも満足のゆくものというわけもありません。特に真面目くさって考えたものについて言えば、厳密な表現というものにこだわって逆に読みづらくなっていることがあるんじゃないか。自分の文章を見返してそう思うのです。なので今日は内省の意図も込めて、文章表現が晦渋になってしまうことの中身について考えようかなと思います。

明快のための晦渋

 安吾の「創作的文章のホニャララ意慾」、みたいな文章を受験のときに読みました(過去問)。そこに明快であることの重要性の話があったことをよく覚えています。(安吾はまたそのうちきっちり読まねばならないのですがそれはさておき、)何かを表現する時わざわざ難解な言い草をする必要があるのかということを説きます。おおよそ疑う余地はないと思います。
 衒学主義者でもなければわざわざ難しい言い方で聞き手を試すようなことをする必要はありません。日常会話において、何か語る際にはできるだけ伝わりやすく話すというのはコミュニケーションの鉄則でしょう。

 しかし、文学作品の場合にはその限りではない、とも彼は述べています。もちろん作品全体の言わんとすることがバッチリ伝わるのが重要だ、というゴール地点は変わりません。が、そこに至るまでの道のりが少し異なっています。というのも、文学においては一から十まで簡単な言葉だけで説明できないことがあります。それほどデリケートで、機微の関わった内容を語るためです。
 このことは何かひとつストーリーを想像すれば即ち分かることですが、例えば教科書で読むところで『舞姫』なんかを挙げると、「ドイツに来た主人公が現地の女性と恋仲になるも、失職したため置いて逃げてきた。相手の女性は妊娠していたが、知ったこっちゃない。」という胸糞エピソードになるわけです。が、こんなことを言うと作品の味わいが完全に死んでしまいます。なので、散々晦渋な言葉を用いて遥かな深みをつくりだすのです。なるほど、文学技巧の要を押さえているように思われます。さすが。  
 ただ、ひとつツッコんでおかねばならないのは、先ほどから繰り返し引用している「晦渋」という言葉です。いや、わざわざ「晦渋」って言わんでええやん。「複雑」とか「難解」って言ったらええやん。あえてこの普通使わない言い方をする特徴は、見当たりませんでした。ここはブーメランです。

 さて、私の話に戻りますが、この話をふまえると、私がなるべく言葉を正しい用法で使おうとするあまりつい難しくなっちゃうのは「ダメなことだ」ということになります。日常会話はなるだけ平易・簡潔であることが正義なので、複雑であるということは即ち悪になります。
 しかし、ただこの文章を読むだけでは、安吾の言葉に懐柔されてしまうような気がします。なので、私が「文学を口から吐き出している」という逃げ道も考えてみます。そうは考えづらいのですが、論理的には、¬(ナリカワの言葉が明快である) →(¬(ナリカワの言葉が日常会話として機能している)∨(ナリカワの言葉が文学作品の過程をなぞっている))は成り立ちます(論理学を習い始めたので使ってみました笑)。

 いったん書くのに飽いてきたのでこのへんにしておきます。なーんにも考えてなかったのに意外と長くなりますね。がんばって数日以内に結論まで行きましょう。気が向いたらまた読んでね。(つづく)

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