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中島哲也監督の映画『来る』が凄かった。

 昨日、見てきた。



すでに1日一回のレイトショーになってたので、興行的にはあまりうまく行った作品というわけじゃないかもしれないけど、見ていて突き刺さるものがたくさんあって。見終わってから、ずーっと『来る』のことを考えてる。

 まぁ、ホラー映画を期待して見に行った人が肩透かしを食らうのもわかるし、後半に向かうにしたがってどんどん映像が過剰になっていくから、どう捉えていいのかわからない人がネタ的に消費してるのもわかるんだけど、そういうポップな映像で処理されてる裏側にすごく恐ろしいものが隠れてて、それがホラーという手法によってグイグイあぶり出されていくのが、今の自分の気分と肌に合うというか、あぁ、まだこういうやり方で世に問う人がいるんだなぁというのが感動的だった。

 2010年に公開された中島監督の映画『告白』って今考えるとすごくSNS的で、人と人が過剰に繋がっていることで起こる悲劇の連鎖を学園ミステリーって形で描いてて、当時すでにミステリーとしてはどうか? という批判が湊かなえの原作も含めてあったけど、そういうことは関係なくて、もっと先を見ていたんだなぁってのがよくわかる。逆に『乾き』は娘を失った中年刑事の姿を通して、そういうSNS的な世界から阻害された男の心情を描いてたので、当時(2014年)としてはすごく浮き上がった作品に見えた。

 それで今回の『来る』は『告白』で描いてたことをオカルトホラーの形式で描いてるんだけど、それがすごいしっくり来てて、現代の絵解きと、そこからどう抜け出すかという回答の出し方としては見事だと思った。

 ただ、そういう風にはこの映画は見られないで終わるんだろうなぁと思う。中島監督って今の日本では最高峰の映像センスの持ち主で、それが映画を求めてる人からは、CM作家上がりは内容がないみたいに、批判的に語られてしまうんだけど、そうじゃなくて映画という形式からはみ出してしまった現代性を描いてるからああいう映像になるんだと思う。だから本当はNetflixとかでドラマを作った方がいいのになぁと思う。『ゴーン・ガール』までの映画を撮ってた時のデビッド・フィンチャーに印象は近い。本人は映画好きで引用もたくさんしてるんだけど、シネフィル的な人には引っかからないから党派性を持ちようがない。今の映画って、ある種のファンコミュニティを作って、その人たちがイベント化して何度も映画を見ることを起点にしてヒットしていくんだけど、中島監督はそういうコミュニティが背後にないんだよね。だからこの人の映画はいつも孤独だなぁと思うけど、それが作品と合ってるなぁと思う。背後に文脈を持たないが故に自由に作品を作れて、だからこそ今の時代のコアな部分に迫れるというか。あぁ、こういう人こそ作家だよな。

 ここまで具体的な(感想)は、ほとんど書いてないけど(※)、映画(というかフィクション)ってこうであるべきだよなぁってことが全部詰まってた。みんなもう、こういう映画を作ることは諦めてたと思ったけど、まだやれるんだよなぁ。諦めちゃダメだよなぁと思った。

(※最初に感想を書いた時は「具体的なことは、ほとんど描いてないけど」って書いて合ったので、直した。自分が感想として作品の中身を書いてないって意味だったけど、作品自体が具体的な描写をしてない、みたいな書き方になってしまった。もしかしたら映画を見た人はそう思うかもしれなくて、それはある意味では合ってるんだろうけど、僕は逆に、この作品は具体的なことしか書いてないのではないかとも思う)


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