医療カルテの物語構造・序(1)―(理論的レベルにおける)多重コミュニケーション構造―

これは一つのテーマについて考察する準備段階の短文であり、固有名詞の呼び方等所謂お勉強は敢えて一切しないで思い付きでのみ書くので、まだ未分化なもので多少の間違いもあるかも知れないが、取り敢えずアイディアを公開しておきたい。
病院に行ったことのない人は少ないと思う。つまり多くの人が病院のお世話になっているというのは、客観的な事実として認められることだと思う。
なお、ここで「病院」と言うのは、多くの場合都市やその近郊にある大学病院のような大規模病院から、日本中の多くの町々にある(ない所もある)個人病院のような小規模病院までを含む、すべの病院を意味する。
それだけ多くの人がお世話になるにも拘らず、しかしながら病院について「患者」の方は、「お世話」になる専属の役割を担っているようで、「お世話する」方の存在(その中心は、少なくとも患者からは医師及び看護師に見える)について、良く知っているとは言えない。
これは、医師や看護師を個人的に良く知ってはいない、ということを意味している訳ではない。それなら、例えば買い物の会計をしてくれるコンビニやスーパーの個々の店員のことも、大抵の場合我々は良く知らない。
しかし、店員と医師・看護師との間には、もっと本質的に違う何かがあるように、恐らく我々は感じている。病院に行った時も、我々は最後に会計するので、その意味では店と同じである。買ったものが「サービス」の一種であるという違いである。そういうタイプの「店」なら、病院以外にもたくさんある。しかしこの辺の議論に入り込み過ぎると本題から外れて行きそうなので、以下、省略する。
さて、病院と患者との間の関係において私が強調したいのは、その「非対称性」である。患者は病院に行って医師と会うが、極めて多くの場合、患者が持つ医療知識は医師が持つそれと比べて圧倒的に少ない。このような非対照的性格を持つ(広義)関係としては、その他にも法律的諸関係(訴訟、調停等)、教育的諸関係(学校、大学等)等がある。
これらに共通するのは、これらの関係において一方的な権力的関係が構成されることである。病院の場合なら、医師側の大きな権力が患者側を支配する関係が構成される。特に病院の場合、患者は知識において医師や看護師に大きく劣ると共に、病気や怪我を抱えた「弱い状態」で彼らと接するので、病院側の権力に黙って従属するようなことも多くなる。
私自身、ある大学病院で、ある若手医師(大学の職位階層では助教)に疑問点その他について話をしていたところ、「その他のことなら良いが、こと医学関係のことについては、医師の言うことを聞くべきだ」ということを、かなり恫喝的な調子で言われた経験がある。(私としては、それを聞き、またそれに従った上で、さらに残る疑問点や質問点を述べていただけのつもりであったが、そういう風に受け取るのかと、非常に驚くと共に、怖かったことを覚えている。)
この種の問題について考える際に、話をあまり大きくし過ぎると抽象的な議論になってしまう恐れがあるので、ここでは特定の話題に話を限定しようと思う。
そもそも私がこのようなことを議論しているのは、あくまでも私自身の専門領域としての物語論(ナラトロジー)や物語生成研究の観点からである。医療と物語とを巡る話題として、従来から、物語カウンセリング等臨床心理学領域では活発な議論や実践が為されて来たが、その次に(近年では)、「物語に基づく医療(ナラティブ・ベイスト・メディスン)」に関する研究も、特にエビデンスに基づく医療(エビデンス・ベイスト・メディスン)との関わりにおいて活発に行われており、日本語で読める文献もかなり存在する。これらについては、文献研究とその紹介も含めて、今後語って行くつもりであるが、ここで取り上げてみたいのは、まだ一般に(特に日本では)あまり論じられることのない、「医療カルテ」(正式に何と呼ぶか知らないので、ここでは医療カルテ、以下略してカルテと呼ぶ)についてである。

昔は、病院に行くと医師が胸や背中に聴診器を当て、口の中を覗いたり、顔と顔を突き合わせながら話をしたり、といったことが、殆ど儀式のような診察ストーリーであったが、何時の頃からか、病院に行って診察室に呼ばれると、医師は大抵パソコン画面に向かっており、患者の話を、多くの場合患者の顔は見ずに聞き、その内容(と思われること)をせっせとキーボードで打ち込うんでいる、という風景が当たり前のものとなった。
昔も、患者との話や一定の診療行為が終わると、あるいはその時々に、医師は机の上に広げた紙に大抵は万年筆で何かを書き込んでいた。子供の頃、お医者さんは何を書いてるのと母に聞くと、「ドイツ語で」カルテを書いている、という返事だった。明らかな尊敬の念を込めた口調だったことを覚えている。人に聞いたのか自分で調べたのかは忘れたが、日本の医学は主にドイツから学んだので、ドイツ語が伝統的にカルテのための言語として使用されて来た、ということのようであった(これも調べていないが)。その後何時の頃からか、カルテに書き込む言語がどうやら日本語になったようだった。無論、今多くの医師がパソコンに書きこむカルテの言葉を見ると、それは日本語である。まだ紙のカルテを使っている病院もあるが、覗いてみると、そのための言語も日本語であった。
さてこのカルテであるが、病院に行った際、医師が書き込んだり、あるいは看護師が書き込んだりする姿を頻繁に見るにも拘らず、その中に何が実際に書かれているのか、なかなかお目にかかる機会はない。
しかしながら、患者がカルテの開示を病院に請求する権利が認められており、病院側はその理由の如何に関わらず(正確に言えば、患者本人等開示請求者はその理由を病院側に通知する必要はないし、病院側はそれを開示請求者に聞いてはならない、ということになっている)、請求した患者にカルテにおける請求範囲のコピーを見せなければならない。但しかなりの金がかかる。また、これについては国家レベルの制度的保証があるにも拘らず、開示を拒否するようなひどい病院も未だに存在しているようではある。少数のひどい病院もあるにはあるようであるが、しかしながら、患者側は、金さえ出せば、自分の診察において医師やその他の人々がカルテに何を書いたのかを、容易に見ることが出来るようになっている。

私が専門分野にしている物語論(ナラトロジー)やそれと人工知能・認知科学に基づく物語生成研究では、物語もしくは物語生成の構成要素をある程度詳密に分析する。細かい部分を抜きにすると、概略、それは、何が語られているのかを意味するストーリー(その中に登場人物や事物の概念が含まれる)、どのように語っているのかを意味する物語言説(ナラティブ・ディスコース)、どのような主題によって物語が語られ・聞かれているのかを意味する語りの状況等の要素から成る。物語と言うとついストーリーが最も重要だと思いがちであるが、それは一種の錯覚であり、それは物語の絶対の必須要素では、ない。寧ろ、物語において重要なのは、ある内容が(ストーリーがある場合が多いが、ない場合もある)、どのような主体によって、いわば交換されるのか、という方の側面である。
このような意味での「語りの状況」を、カルテの場合で考えてみると、それは結構複雑な構造をしていることが見えて来る。
カルテは「実際に語られた物語」ではなく、小説等と同じように記述された物語であるが、ここでは「語り手」、「聞き手」のような物語論の比喩によって記述する。実際の物語現象としては、ここで言う語り手は「書き手」もしくは「記述者」であり、聞き手は「読み手」もしくは「読者」である。
その語り手-聞き手関係における主要な関係は、以下のように分類することが出来る。

① 語り手としての医師・看護師等と、聞き手としての医師・看護師等との関係
② 語り手としての医師・看護師等と、聞き手としての病院内部の関係者との関係
③ 語り手としての医師・看護師等と、聞き手としての患者本人との関係
④ 語り手としての医師・看護師等と、聞き手としての外部の何らかの主体との関係

上記①は、対象となる患者に関連するカルテを書く医師・看護師等が、自分達を中心とする病院のその患者に対する医療従事者に向けて書かれる、物語論的関係のレベルである。
例えば、その患者に対する診療が継続されている場合は、そのカルテを書いたのと同じ医師や看護師が、それ程時間的間隔を開けない将来にそのカルテを読む可能性が高い。例えば、その患者の病気が一旦治り、暫く経ってからその患者が再診した場合なら、別の医師や看護師がそのカルテを参照し、新しい記述を追加することになる。
このように、それを参照する主体が完全に同じであるという訳ではないが、これらの場合カルテの参照は同じ病院の医師・看護師等によって行われる。このような意味で、ここに示した関係は、「自己参照系」であると言える。自分が書いたものを、自分が読む、という意味である(実際は、「自分達」であるが)。

②は、①とは違って、その患者の診療に直接当たったあるいは当たる医師や看護師等が参照するのではなく、診療とは直接関係しないが、しかしながら同じ病院内の他の主体が参照する、というような場合である。
実際に病院で行われているのかどうか私は知らないが、安全管理等の観点からするカルテの(病院としての)自己点検のようなものがあるとすれば、その際の物語論的関係はここで述べたものに当たる。また、外部から訴えられたような場合、その語り手たる医師や看護師等とは異なる内部主体がカルテを参照することになるに違いない。
このような意味で②は①とは異なるが、しかし共通性もある。それは、共に内部的な物語論的関係に留まるという点である。すなわち、両方とも、このカルテを作成した病院の内部における参照なのである。

従って、①は「内部における自己参照系」、②は「内部における自他参照系」と定義することが出来る。

これらに対して③は、そのカルテの中に診療関連状況を、担当した医師や看護師等によって記述された当の患者本人が、開示請求という制度的に保証された方法を用いて参照するという形態である。
上記二つが共に「内部における参照系」であったのに対して、これは「内部/外部を貫通するところの参照系」である。
ところが、病院という組織体を内部/外部を区別する要素と考えれば確かにそうなのであるが、同時に考えなければならない極めて重要且つ本質的なポイントは、このカルテが、外部としての患者に関して書かれたものであるという事実であり、物語の言葉を用いれば、患者こそがこのカルテの「主人公」である、という事実である。その点では、患者は外部であり且つ内部の存在でもある。
ここで問題なのは、このような意味で内部の存在でもある、主人公としての患者が、自分について書かれたカルテを容易に見ることが出来ない、という状況である。確かに制度的には保証されている。しかしその壁はかなり高い。
実際、私の経験から言えば、私はある興味から自分に関連するあるカルテを大学病院に開示請求したことがある。その理由を一切聞かれなかったことは言っておかなければならないが、かなり大変だった。「ある興味」がなければ、普通はなかなか出来にくいことである。電話だけでは受け付けて貰えず、仕事時間の合間を縫ってわざわざ病院に行き、小部屋に通されて、理由については表立っては聞かれなかったものの、それに誘導するような質問が幾つかあり、ようやく「許可」が出た。最もまずかったのは、その後この件で質問があり、担当者に貰った名刺に書かれていた電話番号に電話すると、それは通常予約やそのキャンセル等に使用される病院の総合案内であり、そこで担当者の名前を言って呼んで欲しいと言うと、詳細に理由を問い詰められ、総合案内で必要と思われる点だけを答えたところ、電話を回すのを一度拒否された。もう一度かけて、名刺の名前を言った上で、少なくも総合案内ではなくその上のレベルに回してくれないかと頼んだが、それも拒否された。その後工夫してようやく回されたが、余計な時間と労力がかかっただけでなく、あたかも怪しい者であるかのような対応をされ(実際、病院内では、総合受付から担当の部署に対して、「怪しい者が電話を求めている」、といった勝手な情報が伝達されたことが推測される)、精神的不快を感じた。しかもそれ以前から、その病院の壁に、カルテの開示請求に関する案内が貼ってあることを私は認識していた。それがきちんと行われる(べき)旨は書かれていたが、手続きルートがまだ如何にも内部的な、普通の人にとっては壁の高いものとされていた。(理念では受け入れるが、現実的体制として拒否する、という方法なのか。)
上述の話に戻すと、このような形でのカルテの開示請求は、そもそも自分もしくは自分に近い関係者が「主人公」となっている文書を読みたい・見たいという請求である。しかも自分やその関係者は犯罪者でも容疑者でもない。これを見るのに結構高い壁があるということ自体、少し考えるとかなり不思議なことである。主人公としての自分がどのように描かれているか、誰しもが興味を持つところであろう。

さて、次の④は、③と同様外部の聞き手による参照を意味するが、③との違いは、その聞き手が直接の主人公もしくはその近縁者ではない、ということである。
例えば、訴訟が行われていて(あるいはその準備がされていて)、弁護士がカルテの開示請求を行う、というケースが考えられる。
しかしこの場合も含めて、主人公たる聞き手(患者)と密接な関係を持つ聞き手が参照請求するという点では、③と本質的に異なる場合ではないとも思われる。
③も④も、「外部における自他参照系」である点では共通であるが、特殊なのは③の場合、その参照者こそがカルテに書かれた当の主人公である、という点である。同時に、上述のように、④の場合も広く見れば主人公としての患者本人と密接に関連する主体が聞き手である点では、③と類似している。
従って、この参照系は「外部」でしかも「他」なのであるが、「この外部・他こそが、その存在がなければカルテそのものの存在もあり得ない、最も重要な関与者としての患者である」、という事実である。

カルテを巡る物語状況には、以上のような複雑な相互関係群がある。一方で、「語り手の物語言説」すなわち物語を如何に語るかという側面に目を転じると、この物語状況の一種の多重性に応じて、それもまたある複雑さを持っている。
これは、あるカルテを書く医師・看護師等の主体・語り手が、誰に向けてそれを語るのか、という問題である。
第一に、語り手は、自分達そのものに向けて語る。上述のように、完全に同一の自分達に向けて語る側面もあれば、事後的に現れて来るかも知れない「自分達のグループの誰か」に向けて語る場合もあるが、何れにしても、まずカルテは語り手と等しい相手に向けて語られる。これが、「自己参照系としてのカルテ」ということの意味である。
第二に、語り手は、自分がその主人公としての主体について書いたカルテを、その主人公たる主体もしくはそれと密接に関連する相手に向けて語る。このタイプの語りは、従来は制度的な壁によって、現在は私が上に述べたような実践上の壁によって、隔てられていた病院側と患者側とをコミュニケーションの通路で繋ぐものであり、現状がこのように簡単ではないものであるとしても、少なくとも物語論的な理論の観点からは、完全に成立するルートである。

抽象的な意味での物語の語り手としての病院は、そして直接的で具体的な物語の語り手であるところの医師や看護師等(先程から「等」と書いているのは、この中には薬剤師や介護士その他も含まれるからである)は、同時に、自己及び他者に向けて、物語を語る存在である。しかもこの他者は、基本的に、カルテがその存在に関して記述される当の主人公を意味する。
しかしながら、これまでカルテが、病院にとって他であり且つカルテ自体の主人公でもある患者に向けても書かれる・物語られるものである、という意識は、医師や看護師の側に極めて弱かったと考えられる。そのことは、その語りのスタイルがまだ確立されていないに相違ない、という推測をもたらす。

「カルテの書き方」に類する本を少し検索してみたが(まだ一冊もきちんとは読んでいない)、そもそもその種の本が殆ど出ていないのに加えて、入手しやすい本は「医師・病院の側の視点に立った本」であった。つまり、「医師(病院)が患者に訴えられることを回避するためのカルテ教本」の類の、非常に防衛的な本であった。無論、多くの病院に、カルテの記述指針の類が存在することも確認し、その幾つかは実際に読んでみているものの、一般に普及する書物において上述のような防衛的な本ばかりが出てしまうような状況は、今後避けなければならない。そのためには患者の側がもっと声を上げることが重要である。

さて、私が、最近新曜社から出版した『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』の内容をもその「体系」の中に包含されるものとして構想している「物語生成のポストナラトロジー」研究における「体系」構想は、「医療もしくは病院の物語(生成)」もその中に含んでいる。
ここで述べたのは、その一環としてカルテに関する考察(の序)であり、今後、以上に述べたカルテの物語論的構造に関する基礎的考察を敷衍・改訂する形で、研究を進めて行きたい。さらに、カルテだけではなく、それをより一般化した医師・病院と患者とのコミュニケーション一般の問題や、医療訴訟等病院と患者との対立や調停の構造の問題等にも考察と研究を広げて行きたい。

なお、私はこれまで、精神病学を専攻する医学博士で、長年大学の健康管理業務の仕事にも従事して来た、青木慎一郎・現岩手県立大学名誉教授と、「発達障害と物語生成」を巡る共同研究を続けて来て、現在もあるテーマについて共同で追求している。ここで開陳した、カルテの物語(生成)構造に関する研究アイディアは、私自身の物語生成のポストナラトロジーの文脈だけではなく、このような青木名誉教授との共同研究の文脈とも関連している。
青木名誉教授の関連する論文は、私が編集した『ポストナラトロジーの諸相』(新曜社)に含まれている。

因みに、青木先生には、雑談レベルではあるが、私の『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』を読んでいただき、特にプーチンの精神分析をしてほしい、とお願いしているところである。


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