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欠けたまま完全な世界

 松葉舎での授業の話です。

 塾生の方が『言語の力』という本を購入されたということでそれに関連する話題が出ました。その本では、大雑把に言うと複数言語を習得していると、世界の把握の仕方が変わってくるということが書かれているようでした。
 その本を買われた塾生の方は野口体操を通じて「身体が柔らかいとはどういうことか」を探究されている方だったので、塾長の江本さんから、「複数言語を習得することで世界の把握の仕方が変わるということは、身体の文脈に置き換えたらどのようになると思いますか」という問いかけがあり、話題の深掘りがされました。

 その話題の中で別の塾生から、システマにおいて片腕を動かさないワークがある、との言及がありました。そのワークにおいては「腕を動かしたいけど動かせない」という心理状況だと対応できない状況も「腕を動かさない」と納得した心理状態だと対応できることもある、ということが紹介されました。
 これは言い換えれば「片腕しか動かせない身体」という身体における世界の把握の仕方を学ぶワークであり、「複数言語を学ぶ」ことの身体における言い換えであると私は思いました。欠損がある状態でもそれを「欠損がある」と捉えるか「これで十全である」と捉えるかで身体の在り方が変わる好例だと思いました。
 この話から、江本さんからも、身体は欠損があったとしても欠損があるなりに動こうとする、という言及があり、それを聞いて私の脳裏に思い浮かんだことが2つありました。

 一つは私がかつて遍路をした際、ある集落で3本脚の猫を見つけた時のことです。
 その猫は事故によるものかどうか分かりませんが足が3本しかなく、通常の猫のように俊敏には動けませんでした。しかし3本の足でバランスを取り背骨も絶妙に動かしながら歩いていました。その猫の動きは4本足の猫とは全く違う足の運び方、背骨の動かし方でしたが、その3本の足しかない身体で発揮できる十全とした動きでした。

 もう一つは『ヤンキー君と白杖ガール』という漫画の一場面でした。

全盲の青野(目を瞑っているキャラクター)の発言

 この場面は、全盲である青野くんが「色」を学んでいった過程を主人公の黒川(左下のキャラクター)に語ったあと、黒川が「青野が日常でそんなに苦労していると思わなかった」という発言をしたことに「そんなに気の毒がらないでよ」と返した後の場面です。
 この発言は「目が見えている=正常」「目が見えていない=異常」という捉え方ではなく、自分が生まれてきた身体はそれそのもので十全である、という捉え方が、全盲である青野というキャラクターの口を借りて表現されています。

 授業では他にもこれに似た例が出されたのですが、共通するのはある一定の状態を「正常」と捉えて、それに足りない状態を「欠損」「異常」と捉えるのではなく、そこにあるそのままを「十全である」と捉える在り方でした。

 私はなぜかこの考え方に非常に強く惹かれ、これはとても大事なことだと思えました。

 いわゆる「身体障害者」(ここでは敢えてこう呼びます)の方々は「健常者」(ここでは敢えて以下略)に比べて不自由を感じているから、不便さを取り除くためにバリアフリーな環境を作りましょう、というような言説があります。このこと自体は確かに大事な視点であり、「ノーマライゼーション」とはすなわちそういう視点においてなされるものだと思いますが、それとはまったく別の視点として、「どのような身体状態であっても、その人が生まれ持ったその身体は完全である」という視点も大事だと思いました。

 よく言われることですが、全盲の方は視覚がある人間と比べて聴覚や嗅覚のような他の感覚が鋭敏になると言われます。つまり彼/彼女らは私たち健常者より細かな音や匂いの世界に生きているのです。
 では健常者が生きている世界は全盲の方の世界より「荒い」音や匂いの世界を生きているのでしょうか。恐らく多くの人が、実感として「私たちは荒い音や匂いの世界に生きているのではない。今感じている世界はそれそのもので十全である」と感じているのではないでしょうか。
 それと同じように、全盲の方々は「健常者の世界から視覚を除いた世界」に生きているのではない、ということです。彼/彼女らも実感としては、「今感じている世界はそれそのもので十全である」と捉えているのです。
 健常者である私たちの世界の在り方を基準にして全盲の方の世界を評価した場合に、全盲の方々の世界を「視覚の欠けた世界」と捉えることが可能になりますが、そもそもそれぞれの世界がそれそのもので十全であるなら、そうした評価(表現)は的外れとなります。

 

 上記の話は身体における話ですが、これは心においても言える話ではないでしょうか。
 例えば、発達障害と呼ばれる状態の人がいます(私もその1人です)。一般には発達障害と呼ばれる人は、定型発達と呼ばれる人より一つの物事に拘り過ぎる、あるいは注意が拡散しすぎたる、といったような特性があるとされます。定型発達を基準にすると、その基準から外れる特徴は「障害」と見なされるのでしょうが、先述の話を敷衍するなら、発達障害と呼ばれる状態の人も「その人にとっての完全な世界を生きている」と言えるのではないでしょうか。
 「障害がある」とされる人も、それは「正常」と見なされた基準から見た評価でしかなく、その人にとってはそれで必要十分な世界となっている、という捉え方は、対等な人間関係を築く大事な一つの視点となるように思えます。


 私は自分自身を「欠陥のある人間」と捉えているところがあり、いつも「マシな人間になりたい」と思っています。「マシになる」方法として、仏教や身体の探求を求めている側面もあります。
 ただ、「欠陥のある人間」という捉え方ではなく、「今のままで十全な人間」という捉え方をすることで、見えてくる地平が変わってくるように思えました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!