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統合失調症と無我、あるいは希死念慮と生きたいという執着について

 無銘さんの以下のスペースを聴いていろいろと感じることがあったので、連想したことや感想を書いてみます。

 なお、本記事において精神医学に関わる内容の言及がありますが、私は精神医学を専門的に学んだことは無く、本を読んで雑に理解した内容ですので間違いも多いかと思います。間違いに気づかれた方はコメント欄で優しく教えていただければ幸いです。


 さて、無銘さんのスペースの内容を私なりにまとめると以下のようになります。


 無銘さんは中学校3年の終わりに「自明性の喪失」とも言うべき体験があり、「自分」と言うものを統合された存在だと認識できなくなった。
 「自明性の喪失」は統合失調症(旧名:精神分裂病)の症状として知られ、自分が感じている五感や内面の感情や思考を個別ばらばらのものとして認識してしまい、「自分」という統一した存在と紐づけられなくなるものだ。その「自明性の喪失」の体験があった無銘さんも統合失調症と同じ症状があったという(お話の流れから、恐らく「統合失調症」という診断はされていなかった模様)。
 中3以前までのように世界を認識できなくなり、その結果あらゆることに意味を感じられなくなりました。そしてその状況に苦しみを感じ希死念慮も覚え、自殺未遂も繰り返した。しかし死ぬことができず、もがく中で縁あって仏教に出会った。

 ところで、希死念慮は生きることに本当に絶望した時は起きないのではないか、と思ったという。「生きたい」という希望というか幻想を抱いているからこそ、「死にたい」という気持ちが湧いてくるのではないか。希死念慮は生きたいという気持ちの裏返しなのではないか。そう感じることもあったのか、無銘さんは仏教の実践をすることで「生きたい」という希望を無くしてちゃんと死ねるのではないか、ということを期待する心もあったという。
 その後、非常な強度で仏教の瞑想実践に取り組まれた結果、ある一定の境地に達した。そして「生きたい」という執着が無くなったことで、希死念慮も無くなった。しかし、それは一般に統合失調症が「治った」と言われる状態とは異なった。
 一般に統合失調症が「治った」と言われる状態は、自我の再統一のなされた状態である。無銘さんの例でいえば、中3以前の状態に戻ることを言う。
 一方、無銘さんは中3の時と同じように自我が統一されていない状態であることは変わっていない。だが、「自我が統一されていない」状態であることを受け入れられたので、そこに苦しみが無くなったので、結果として希死念慮も無くなった、という。


 まとめが長くなってしまいました。
 以下、この内容について私が連想したこと、思ったことを徒然に綴ってみます。

 まず、「希死念慮は生きたいという心の裏返し」という話は私には非常に腑に落ちる話でした。
 これは私の経験からの理解ですが、以前私も「死にたい」という気持ちに囚われていた時は、今振り返ると本当の意味で「死にたい」と思っていたわけではありませんでした。
 私が「死にたい」と思っていた時は、当時の職場で自分がうまく適応できず、自己評価も他者評価も非常に低い状態でした。そして私はそういう状況を嫌い、「自分を意味ある人間だと思いたい、人からもっと評価されたい」という気持ちが強くありました。
 しかし、実際には私が望むその状況は現状とは程遠く、そのギャップに苦しんでいました。そして「死にたい」が最も強く出たときは、実際には「死にたい」よりも「逃げたい」が本音でした。この自分が価値ある存在と思えない状況から逃げたい、しかし現状のどこを逃げてもその状況から逃げられない、だから自分の人生から逃げる、つまり「死のう」になりました。
 私の場合も正に「(自分が望む在り方で)生きたい」という強烈な執着があったからこそ、それが実現できないことに苦しみ、「死にたい」になっていました。

 なので、仏教の実践によって「生きたい」という執着が無くなったら「死にたい」も無くなる、という話は自分の体験から非常に納得できる内容でした。


 次に「自明性の喪失」という無銘さんが陥った状態についてです。
 私がスペースでその話を聴いて真っ先に思い浮かんだのは精神分析医のジャックラカンが提唱した「鏡像段階説」でした。
 「鏡像段階説」とは、生後6ヶ月から18ヶ月の幼児が自分が鏡に映った姿を見て、自己の身体を統一的に認識する過程をとることを言います。
 鏡像段階説によれば、生後6ヶ月から18ヶ月の幼児は自分の身体に起きる様々な感覚を統一的にとらえられず、バラバラな感覚がバラバラに認識されている状態だそうです。その時に鏡を見て、視覚情報として「身体的に統一された自分」を認めることで、先行して「統一された自己イメージ」を取り込み、感覚の統合を行い、自我の統一を図っていくそうです。

 無銘さんが御自身で「自明性の喪失」と呼んだ状態は、この「鏡を見る前の幼児の感覚」に近いように感じました。
 自分の中にある感覚がバラバラにあり、思考や感情が並行して存在し、それが一つの統一された感覚として捉えられない状態、という説明を無銘さんがされていたので、私の仮定は大きく外れてはいないように思います。

 仏教で無我について説明されるときも上記のような説明がされることがあります。つまり、私たちが「自分」と呼んでいる統一的な存在は幻想で、実際には視覚や聴覚などといった感覚(と心)が都度生じているだけで、それを統合する「自我」という存在は無いのだ、というような説明です。
 これは無銘さんが中3の時以降に感じた実感と内容的にはほぼ同じです。
 では、無銘さんは中3の時に無我を悟ったのか?というとそうではないそうです。
 実感として統一的な自我を感じられなかったそうですが、中3以前の状態を想定して、その状態がいわば「普通」であり、そうでない「自明性の喪失」が起きている状態が異常である、という観念があったため、そこに苦しみが生じていたそうです。中3以前の状態に戻りたい、という思いもあったのかもしれません。
 しかし仏教実践によってその「統一された状態が普通」という固定観念が壊され、統一されていない状態である自分をそのまま受け入れることができたことで、そこに辛さや耐えがたさを感じなくなったことで苦しみが生じなくなったそうです。

 この話を聴いて私は仏教の「無我」という教えがより理解できました。
 上座部仏教では「無常」「無我」「苦」という三相が真理であり、それをありのままに観察することが実践の進む方向であると示されます。そのため三相の内容については何度も説法を聞いており、当然「無我」についてのお説法も何度も聞いていたのですが、そのどの説法より無銘さんのお話は納得感がありました。
 私が無銘さんのお話を納得できたのは、無我についての説明が他の僧侶の方のお話と特別違ったものであったからではありません。内容的には同じようなものでした。
 しかし、無銘さんは御自身の実体験をもとに仏教の言葉を借りるのでなく、自分の言葉で語っていました。そのため、その言葉には説得力がありました。
 経典の話をいかに上手に説明されても、それが説法者の体験に裏付けされていなければ、それはしょせん他人の体験のまた聞きになります。しかし、自分の実感に基づいた話を自分の中から自然に出てくる言葉で語るのは、まさに話者自身の個人的・個別的体験です。話者の体験的な裏付けがあるため、そこから語られる言葉には強い説得力があるのでしょう。

 経典を読むと、お釈迦様の説法を聴いただけで預流果(悟りの最初の段階)に達する人がたくさんいるのですが、それも何となく分かるような気がしました。
 お釈迦様の説法も、御自身の実体験を御自身の言葉で語られたのだと思います。経典の言葉は現代日本人である私には難しくて分かりにくいですが、約2500年前のインド人には非常に伝わりやすい言葉だったのでしょう。
 私も無銘さんのお話を聴いて、瞑想実践により励みたいという気持ちになりました。当時の古代インド人もお釈迦様の説法を聴いて同じ気持ちになったのではないでしょうか。

 

 現代において聴くことが難しい、非常に貴重なスペースでしたので、より多くの人に聴いていただきたいと思い、宣伝も兼ねてnoteにさせていただきました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!