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過去は変えられる

 先日、たまたま仕事に入った現場は前職の時に住んでいた地域でした。
 そこに住んでいた頃に仲良くなった友人に私が仕事でその地域に行くという話をしたところ、その友人の中に民宿(体験民泊)をしている御夫婦がいらっしゃったので、そこに一日泊めていただくことになりました。そして、その泊めていただいた日に他の友人たちも私に会いに集まってくれました。

 前職でその地域に住んでいた時、私は地域活動に関心があり、休みの日に地域活動をしている人たちに会いに行ったり、地域活動の手伝いをしていました。その中で仲良くなった人たちが地域コミュニティを作ったので、そのコミュニティの活動に参加していました。そうやって増えた友人たちの内の何人かが私の泊まった宿に集まってくれ、再会したのでした。

 その友人たちと出会った当時の私は仕事において上手く行っていませんでした。仕事は遅く、失敗も多かったため、職場における評価は当然高くなく、それに従って私自身の自分への評価も低かったです。
 そのため、私が当時の自分を思い返すと、「あの頃の自分はろくでもなかったなぁ」という印象を覚えます。

 しかしその地域コミュニティでは、私の奇矯な振る舞いも考え方も、面白がって受け入れてもらっていました。職場では顰蹙を買うこともある私が、そのコミュニティではそれが私らしさだということで好意的に受け入れられていたのです。それは当時の私にとって精神衛生上非常に重要なことだったと、今振り返れば思います。
 そのコミュニティでは誰もが気兼ねなくいろいろなことを話せていました。人生に関わること、哲学的なこと、自分が今持っている悩みや葛藤のこと、過去の苦労話など本当に様々なことを語り合いました。それらは職場では語ることのできない話ばかりでした。
 地域コミュニティの友人たちは年齢層も幅広く、私と同年代の方もいれば20歳以上離れた方もいました。しかしその年齢の差や職業の差を誰も気にしないで楽しく交わることができていました。

 ただ、コミュニティでの私への好意的評価も、当時の私はちゃんと受け入れられていませんでした。八空さんとのスペースで言及された「謙遜という名の拒絶」というやつです。私は自分自身への低い自己評価を守るため、相手の自分への肯定的な評価を拒絶していたのでした。

 さて、私が前職を辞めてその地域から離れたことでそのコミュニティに参加することはほとんど無くなりました。その後1,2回ほどその地域に立ち寄った折に数人の友人と会うことはありましたが、コロナ禍になると会うこともできなくなったため、SNSで時々お互いの様子をうっすら知るくらいになりました。
 そういう期間経た上で、何年か振りに友人たちが私に会いに集まってくれ、再会することができたのでした。

 私はそのことに非常に感動しました。連絡したのは数日前なのに、わざわざ私に会いに来てくれたことが嬉しかったのです。
 久しぶりにあった友人たちとの会食はとても楽しいものでした。何年振りかに会った友人ばかりだったのに、当時と同じ気安さでお互いに語り合うことができました。
 再会した友人たちは以前と同じように私を好意的に受け入れてくれました。前職の職場では困った奴扱いであった私の特性を、当時と同じように肯定的に受け入れてくれていました。
 以前の時とは違い、今回の私は友人たちの肯定的評価をなるべくそのまま受け入れました。八空さんとのスペース以降心掛けている「自分に対する相手の高い評価を素直に受け入れる」という訓練のためです。
 そうやって友人たちの評価をなるべく素直に受け入れるようにしていると、不思議と「昔の私もそんなに悪い奴ではなかったのかもしれないな」と思えてきました。

 現在の私の自分への評価の低さの原因の一つに、過去の自分への評価の低さが尾を引いている部分があります。過去、私がろくなことをしなかったため、今の私もろくでもないのだ、といった具合です。
 しかし今回、今の自分への評価を肯定的に受け止められるようになったことで、結果的に過去の自分への評価が肯定的に変わりました。自分の過去の行いが変わったわけではないのに、現在の自分への評価が変わることで過去の自分への評価が変わったのです。この現象がなかなか面白いなと思いました。


 私は今までずっと当時の自分を「仕事ができずに空気の読めない困ったやつ」と評価して駄目出しをし続けていました。職場では確かにそういう評価だったかもしれませんが、しかし友人たちはそうではなく、私のその特性を個性的で、本質的なところに目を向ける良い特性だと評価してくれていました。
 当時の私が受け入れることができなかった好意的な評価を、現在の私が受け入れることで、現在の私が過去の自分に下していた評価も変化したのだと思います。それは当時の自分を職場での低い評価の自分として定義づけるのではなく、友人たちの好意的な評価の自分として再定義することです。
 過去私が行ったことは何一つ変わっていませんが、それを評価する現在の私の目が変わったのでした。

 以前、内観法の研修を受けたとき、指導者の方から「過去は変えられる」という言葉をいただきました。その意味は、過去に起こった事実を変えることはできないが、内観によって過去の出来事の意味付けを変えることで、過去の出来事が自分の人生にどう位置づけられるかが変わる、という内容です。例えば、子どもの頃のある出来事が、今まで親から愛情を得られなかった出来事の象徴として意味付けられていたのが、親の真意を知って親からの愛情あふれる行為だったと理解することで、その過去の出来事が親の愛情を示す象徴的な出来事として再解釈される、といったようなことです。

 そして、先日の私にもそれと似たようなことが起きたのだと思います。
 つまり、今まで過去の自分を職場の低い評価の自分として意味付けられていたのが、友人たちの好意的な評価を受けるに値する自分として新たに意味づけられたのです。まさに「過去が変わった」のでした。

 

 私が今現在苦しみを感じるのは、過去の自分を否定的に評価することが強く影響しているのかもしれない。
 「過去が変わった」ことにより苦しみが少し減じたことでそのような理解が生まれたのでした。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!