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最強とは

 先日の松葉舎の授業で、ある塾生の方が読んだ本が話題にあがりました。

 その本は『韓氏意拳ー拳の学としての意味』という本で、中国拳法の一つである「韓氏意拳」について様々な人の論考が収められた本でした。

 この本を紹介された塾生の方は昔から武術に関心があった方だったので、自然と「強さとは何か」という話題になりました。

 単純に考えれば、喧嘩をして相手に勝てれば、その人は相手より「強い」と言えるでしょう。そういう意味では、格闘技の世界チャンピオンは最も強い人と言えそうです。
 しかし、スポーツのようにルールが決まっていて制限された状況下で強さを競うのではなく、何でもありの状況なら、格闘技の世界チャンピオンよりも銃を持っている一般人の方が「強い」でしょう。もっと言えば、いつでも核のミサイルを発射させるボタンの押せるアメリカ大統領の方が「強い」でしょう。
 では、アメリカ大統領は「最強」の人なのでしょうか?

 武術においては相手に勝つことよりも自分がその状況から生き延びることが重視されます。その場合、勝つことよりも負けないことが大事になります。
 例えば、非常に力の強い敵対している相手に出くわした場合は、逃げることが一番良い選択であるかもしれません。わざわざ相手と戦って負けて死ぬより、その状況から逃げて生き延びる人の方が「強い」と言えます。
 あるいは、敵対している相手と和解して敵対関係を解消すれば、もう争うことは無くなるのですから、それも立派な解決策でしょう。それができる人は生き延びる力がある「強い」人です。

 孫子の謀攻編に「上兵じょうへいぼうつ」から始まる文章があります。

上兵じょうへいぼう(はかりごと)をつ。
の次は交を伐つ。
其の次は兵を伐つ。
其の下は城を攻む。

孫子 謀攻編

 現代語訳すると、
「最も良い策はそもそも争いごとを起こそうという謀略を未然に防ぐことである。その次は外交で手を打つことである。その次は抑止力を使うことである(兵士を攻撃する、との訳もある)。そして最悪の策は侵略戦争である」
となるでしょう。

 孫子というとビジネス書などにも(なぜか)引用されたりする有名な戦略・戦術書ですが、「そもそも争いを起こさないようにするのが一番良い」と書いてあるのは面白いですよね。この前文にも「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈する者は善の善なる者なり」とあり、戦わないで済むのが一番、と説いてあります。
 先の例で言うと、敵対関係にある相手と和解することが孫子の兵法的には最上の策ということになります。

 韓氏意拳の本を紹介された人から、この孫子の話に似た面白い逸話を紹介されました。

 「システマ」というロシア武術の創始者ミカエル・リャブコという人物がいました。ミカエルはロシアの特殊部隊に所属していた軍人でしたが、そこで身に付けた軍隊格闘術を一般向けに護身術として整備し直したのがシステマです。
 ミカエルは大柄で目立つ体躯をしていたので、チンピラから絡まれることも多かったそうです。
 ある日、バーで飲んでいた時、チンピラに「おい!お前変な顔をしてるな!」と絡まれたそうです。そこでミカエルは「そうなんですよ。私も常々変な顔だと思っているんです」と返してわっはっはと笑ったそうです。相手もつられて笑ってしまって、そのまま仲良くなって喧嘩にならなかったそうです。

 この逸話を聞いた時、真っ先に先ほどの孫子の「上兵は謀を伐つ」という文章が頭に思い浮かびました。ミカエルのこの態度は、まさに「謀を伐つ」、つまり争いごとが起こる火種を事前に消す方法に思えました。
 ミカエルは、先ほど述べたようにロシアの特殊部隊に所属していたので、そこら辺のチンピラと喧嘩しても負けることはないでしょう。しかし、チンピラに絡まれた時に暴力で相手を倒すのではなく、相手の威勢を上手くそらして逆に和やかな雰囲気にして喧嘩自体を起こらなくしたのでした。
 私はこの態度を「強い」と感じました。

 
 私は「最強の人」とは「無敵の人」なのではないかと思います。「無敵」とは文字通り「敵が無い」ということです。それには上記のミカエルの例や孫子の兵法で説かれているように、敵対する相手を無くしていくことです。暴力で相手を屈服させるのではなく、相手と和解することで仲間を増やして行けば敵はいなくなり、「無敵」になります。争う相手(敵)がいないなら、その人は誰からも争いを仕掛けられないため負けることはありません。負けることの無い人は「最強」と呼べるのではないでしょうか。

 
 今の日本では、「マウントをとる」とか「論破する」と言った相手より優位に立ったり、相手を打ち負かすことを良しとする風潮があります。しかしそうした態度は孫子で言うところの「其の下は城を攻む」という最悪の策ではないでしょうか。
 それよりも、ミカエルの態度のように誰とでも仲良くなってしまえる方が「上兵は謀を伐つ」という最良の策になると思います。

 なぜ「城を攻む」という下策を採用してしまうのでしょうか。それは相手を打ち負かして優越感に浸りたいという気持ちであったり、相手を見返してやりたいという劣等感の裏返しであったり、勝って賞賛を得たいという名誉欲であったり、承認欲求であったりするのでしょう。つまり怒りや欲がその根本にあります。
 それに対して「謀を伐つ」という上策は、そうした怒りや欲から解放される必要があります。「相手と争わない方が良い」という理想や観念だけでは、相手にその心を見抜かれて逆に付け上がられるでしょう。本当に本心から相手への友愛・慈愛の心が無ければ敵対する相手と仲良くなることはできません。
 そう考えると、上策の実行は非常に難しいものです。世の多くの人が採用しないわけです。しかし、その困難さに見合った価値があります。


 今も世界中では多くの戦争や紛争や争いが起きています。それらの争いの原因は多様ですが、「謀を伐つ」という策が最良の策であるということはどの場面でも変わりません。
 最も困難な上策を実行するにはどうすれば良いのでしょうか。いきなり大きな戦争を止めることはできません。私はまず、自分の心から争いの火種を消すことが大事だと思います。
 自分の心にある争いの火種に気づき、それを消し去ること。つまり自分の怒りや欲に気づき、それらに我を忘れる状態から速やかに脱すること。そしてそれを日々繰り返すこと。その努力無くして、それ以上に大きな争いの火種を消すことはできないと思います。

 私たち一人一人が怒りや欲に我を忘れる状態から目覚め、自分の心にある争いの火種に気づくこと。それがまず最初に最も重要な一歩であると、私は考えています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!