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「あ、自分みたいな人間でも生きてて良いかも」と思うために

 1/26から野土ぬづちの活動で山の手入れを行っています。私が参加したのは1/28からで、今日で3日目になります(記事を書いた日は1/30)。

 野土ぬづちで山の手入れをしても当然ながら収益はありません。市の助成金を申請しているため、作業で使う道具類の購入費や重機のレンタル代は助成してもらっていますが、交通費などを考えると個々人の収支は全員マイナスです。
 ここ数日、野土ぬづちのメンバーと山の手入れをしていて、なんでこんなことをしているんだろうなぁとふと考えた時、「まあ自分のためだけでできないわな」と思えました。

 メンバーの中には御家庭を持たれている方もいて、作業の時はそのお子さんも連れてこられます。作業の時は近くでその子がきゃーきゃー言いながら遊んでいます(その子はたしか4歳)。その子の親であるメンバーは常々「自分たちの後の世代のために」と言いながら活動をしています。きっと親としての実感からそのように思われているのだと思います。そして、それは程度の差はあるでしょうが、私にとっても同じ気持ちだな、と思うのです。


 自然環境に対しての私の認識は、現代日本においては経済活動などの人間都合によって日々自然が破壊されている、というものです。このまま自然破壊が続けば、いずれ水も枯れ、あるいは汚れて飲めない水となり、人の住めない土地になる、と本気で思っています。私が野土で環境改善活動をするのは、その未来に抗うため、とも言えます。
 ただ、日本が水も飲めない、人も住めない土地になったとしても、私が自分のことだけ考えるなら、環境改善活動をしようという気持ちにはならないでしょう。自分が生きるために日本が住めなくなるのは困りますが、私一人の困りごとと言っても、最悪自分が死ぬだけです。人は死ぬまで生きることになりますが、私は長く生きたいとは思っていませんので、正直そこまで問題になりません。生きていけない環境になったら死ぬしかないわな、と思う暗いです。
 しかし「これから生まれてくる命に破壊された自然環境を残したいか」と言われたら、「それは嫌だ」と思います。これから生まれてくる命には「生まれてきて良かった」と思える環境をつないでいきたいと思います。
 つまり私が野土ぬづちで活動するのは後生こうせいのためと言えます。自分自身のためではありません。


 とここまで書いて、これだとまるで私が人のために生きる聖人君子だと言っているようなので大慌てで訂正をしないといけないのですが、私は別に人のため、後の世代のためだけに生きているわけではありません。あくまで環境改善活動を行う動機に「後生こうせいのため」というものが大きく影響している、というだけです。

 私は自分が生きるために金を稼ぐためび仕事をしています。私が日頃主に時間を費やしているのは日銭を稼ぐための仕事であり、その余りの時間で環境改善活動をしているだけです。今回は、一定期間集中してメンバーのみんなで環境改善活動に取り組もう、という合意があったので、約1週間一つの現場で環境改善活動をしているだけです。ここまで長期間続けて環境改善活動をすることは頻繁にはありません。
 それに私は自分自身の楽しみのためにTRPG配信を視聴したり、ゲームをしたりしています。仕事以外の時間を全て環境改善活動に費やしているわけではありません。noteを書くために時間を費やしていますし、自己探求にも時間を費やしています。
 私の人生で費やしている時間や労力で、環境改善活動とそれ以外の比率は2:8、いや1:9くらいかもしれません。そんな程度です。なので9割は自分のために人生を費やしていて、残りの1割くらいを環境改善活動に費やしているというくらいです。聖人君子ではありません。

 また、今の私がそうやって環境改善活動に時間と老ry九が費やせるのも、私の精神的、経済的な状況がそれを許しているからです。
 かつてのように私が鬱になったり、経済状況が悪化して生活できなくなったら、今のように環境改善活動はできなくなるでしょう。つまり、やはり自分のことが最優先で、余力として環境改善活動をしているに過ぎないということです。


 とは言っても、環境改善活動0 : それ以外10にはならないか、したくないなという気持ちがあります。
 かつての鬱のときが最も顕著でしたが、自分のことでいっぱいいっぱいだった時、私は時間と労力を自分のことに10注力していました。自分の苦しみを何とかするためだけに生きていた、と言っても良いかもしれません。
 それで何とか最悪の状況は脱したのですが、とは言っても決して心地よい状態にはなれませんでした。-100が-50くらいに改善した、という感じでした。
 
 今だから思うのですが、自分の人生を自分のためだけに費やすことは、むしろ苦しみを増すことになるのではないか、と思います。
 自分の趣味に打ち込むにしろ、自分のためにお金を稼ぐにしろ、人からの賞賛を得るために名誉を求めるにしろ、行動の結果が自分一人のためとなる行動だけが自分の人生の全てになったなら、仮にそれらが達成されたとしても得られるのは充実感よりもむしろ虚しさなのではないでしょうか。他人のことは分かりませんが、少なくとも私はそうでした。
 私が充実感を得るためには、私が私自身を肯定的に捉えるためには、私が心地よく生きるためには、「私は誰か(何か)のために役に立っている」という実感が必要でした。人それぞれ何で人の役に立つかは異なると思いますが、私にとってそれは環境改善活動でした(環境改善活動の場合、相手は自然なので、「人の役に立っている」という言い方が適切か分かりませんが)。
 「自分が心地よく生きるために環境改善活動をしているなら、それは結局自分のためにやっていることではないか」と言われたら、まあそうかもしれません。しかし直接的に自分のためになる行動ではなく、自分以外の誰か(何か)のためになる行動がしたくなる、という側面はたしかにあります。

 繰り返しますが、私が「誰かのために」やっている活動は私の人生の中で1割程度です。主には自分のために生きています。自分のために生きて、その余りの時間と労力を「誰かのために」費やしているにすぎません。ただ、それが0になることは無いだろう、というだけの話です。


 私自身の実感として、「誰かの役に立っている」という感覚は自分自身を元気づけてくれます。誰かの役に立ち、誰かに感謝されたら「あ、自分みたいな人間も生きていて良いのかな」と思えるのです。
 「自分のためだけに生きることは、むしろ自分を苦しめる」という視点は忘れずに持っておきたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!