「時は金なり」にハックされている?【レトリックと人生】読書感想
お疲れ様です。総務部総務課マモたろうです。
今回は「以前以後本」である【レトリックと人生】の読書感想です。言葉や表現を知ること、使うことが恐ろしくなった本です。
「時は金なり」
金言といわれているものです。
しかし、このメタファー(隠喩)が無かったら人間はもっと自然体で生きていたかもしれません。このメタファーを世界を解釈するために使用したがため「時間を浪費する」「この機械で何時間も節約できる」と「時間」という曖昧なものを「価値(金)」あるものとして理解しています。
それは、効率という呪いに縛られているのかもしれません。
※本書は「いかにメタファーで世界を解釈しているか」についてであり、いわゆる自己啓発本ではありません。
この本と出会ったきっかけは、スゴ本の中の人の書評です。
私のnoteを読むよりも、そちらが参考になりますのでリンクを共有します。
「言葉」がないと「思考」ができません。
これまで言葉や表現を知ることは良いことだと無自覚に思い込んでいたことを思い知らされました。
自分がいかに無自覚に経験と言葉で世界を解釈してきたことか。
【葬送のフリーレン】というアニメでこんなエピソードがあります。
主人公のフリーレンの弟子であるフェルンは、ある時、育ての親から贈られた大切な杖が粉々に砕けました。
それを直したいというフェルンに、フリーレンは直せないから新しい杖を買ったほうがよいとアドバイスしました。
それで大喧嘩になったそうです。
その後フェルンは落ち込み仲間にこう打ち明けます。
「少なくとも私には捨てるだなんて発想はありませんでした」
例えば、相手に暴力でいうことをきかせるという「発想」はどこからきたのでしょうか?
偶然の経験、育った環境での経験、はたまた漫画や映画の表現か……。
インプットがない場合にそんな発想をするものでしょうか?
この本に頻出する「議論は戦争である」というメタファーのみをインプットされた人同士が議論をするとどうなるでしょうか?
きっと「議論は戦争である」という人は勝ち負けに固執するでしょう。
「岩の前に帽子が落ちている」
岩には前も後も本来存在しません。なぜ岩の「前」を私達は解釈できているのでしょう。
言葉や表現を知るたびに、私は世界を「より複雑に」「より難しく」解釈しているのかもしれません。
問題を難しく考え単純な解決法にたどりつけないことがよくあります。
「あぁ、この人難しく考えすぎだなぁ」と思ったことはないでしょうか?
私があなたにいった「時は金なり」という不用意な発言は、あなたを効率という呪いにかけたのかもしれません。
言葉は「呪いであり祝い」です。「あなたはうさぎのようだ」と私が表現したのなら、あなたは自分を臆病者だと解釈するかもしれません。
「あなたは男らしい/女らしい」はどれほどあなたを縛ることでしょうか。
私はどれほど言葉に縛られてきたことでしょうか。
私はどれほど言葉に救われてきたでしょうか。
私は言葉や表現を学ぶことで世界を広げているのか、歪めているのか。
知ることは幸せなのか、不幸なのか。
答えはでません。
私はその真逆の可能性をはらんだうえで、今は学ぶことを選択することにします。
「理解」を「どう理解」しているかを知る本です。
自分がいかにメタファーをとおして世界を解釈しているかを知る本です。
おすすめします。
お読みいただきありがとうございます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?