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高柳先生は悩むことを心から肯定してくれる/『ここは今から倫理です。』感想

何かを行なうときにはだいたいうまいやり方が存在する。だとすると、うまい悩み方もあるんだろうか。いやそもそも、問題に対してうまいやり方が見つからないからこそ悩むのかもしれない。

勉強や仕事や人間関係、とにかく悩みは尽きないわけだが、自分自身に対する悩みも解消するのが難しい。自分の行ないが正しいのかどうか、自分は何をなすべきなのか、自分はいったい何者なのか、自分は何のために生きているのか、等々。

たとえそうした悩みを解決できなくても、悩みとうまく付き合う方法はある。そのことを教えてくれるのが、雨瀬シオリの『ここは今から倫理です。』だ。

悩みとの付き合い方

僕たちが悩みを抱えて辛いのは、それを解決する方法が見つからないからだけではなく、どうやってその悩みと付き合えばいいのか分からないからでもある。だって、解決する方法があるならそれを実践すればいいだけなのに、なかなか実践できないだろう。こんなことで悩んではいけない、解決できるのに行動できない、その二重の自己嫌悪が辛いのだ。

本作では高校で「倫理」を教える高柳先生がそうした悩みを抱える生徒たちと対話し、その悩みを和らげていく物語が描かれていく。そう、「和らげる」というのが面白いところである。

高柳先生は生徒が抱える悩みを解決するのではなく、さまざまな哲学者の言葉を引用しながら、時に自身の行動と言葉によって、その悩みとどう付き合っていけばいいのかを説く。けっして答えを提示しようとはせず、「どんどん悩みましょう」と物憂げな瞳と優しい笑みを向ける。

高柳先生は悩みに寄り添い、現状を、悩むことを肯定してくれる。そしてコミュニケーションが苦手な高柳先生自身も、生徒たちの心にどう触れればいいのか、どのように自分の心に触れてもらえばいいのか、いつも悩んでいる。まさに「倫理」の授業を実践している。

倫理は人の心に触れ、自分の心に触れてもらう授業です

『ここは今から倫理です。』は誰も彼もが悩むことで物語が進んでいく。

ただの教師ではなくメンターとして

高柳先生は知識を教えるだけの教師ではなく、悩める生徒たちにとってのメンターとして描かれる。メンターとは精神的な指導者と訳されることが多い。どのように生きればいいのか、どのように悩めばいいのか、愛とは何か、幸せとは何かといった精神的な課題について考える方法を教え、導いてくれる存在だ。

理想を言えばすべての教師が生徒のメンターであるべきだが、現実はそうもいかない。僕の小学校には何でもないことにヒステリックな金切り声を上げて怒り散らす教師がいたし、中学校には暴力で生徒を支配する思い込み熱血教師もいた。

高柳先生は見た目も言動も厭世的で近寄りがたい。でも、僕の中学校にいた思い込み熱血教師よりもはるかに熱い血が流れている。

大学生の恋人に騙されて輪姦され飛び降り自殺しようとしている生徒に駆け寄り、「20歳になったらいい人に出会えるよう合コンをセッティングする」と自分が最大限できることを提案して自殺を思い留まらせる。

自分が普通の人間で何者でもないことに悩む生徒に「自分がどんな人間なのかを自覚したことがすばらしい」と称え、悩みながら生きることが人間らしさだと告げる。

高柳先生にそれができるのは、生徒を自分と対等な人間として見ているからだ。教える立場になるとどうしても他人からの目上的扱いを自身の純なる価値と勘違いしてしまいがちだが、高柳先生にはそれがない。威張らないし、知識をひけらかさないし、無闇に励まさない。いつでも、どんなことでも真摯に生徒と対話する。

高柳先生と深く接した生徒たちが高柳先生を好きになってしまうのも当然だ。お話の流れとしてあまりにきれいな形に見えてしまうが、そうした振る舞いがそのお決まりの形に説得力を持たせる。僕だって読めば読むほど高柳先生のことを好きになってしまう。

※高柳先生がなによりすばらしいのは、最初の授業で「倫理」をなぜ学ぶのかを教えてくれることだ。第1話と第2話で2回もそのシーンが描かれる。作者からの強いメッセージなのだろう。

高柳先生の心に触れられる喜び

本作にはいろんな悩みが登場するが、そのどれかにあなたの悩みが当てはまるかどうかは分からない。いや、当てはまるかどうかはどうでもいい。

登場する生徒たちを通して高柳先生の心に触れられること、自分がいま持つ悩みに高柳先生ならどう答えてくれるだろうかと想像すること。それが本作を読むことで得られる最高の喜びだ。

そしてその行為こそ、高柳先生が言う「倫理」の授業である。

※トップ画像は公式サイトより。

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