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アニメ考察:『バビロン』という淫蕩にして邪悪な物語から見出した、善悪の是非に対する答え【ネタバレあり】

生きることは善いことだ。

今の時代ではそれが常識となっているが、もしその常識が覆される時代が訪れたのなら、我々はどうするべきだろう?

現代社会の日本。東京地検特捜部検事、正崎善は、不可解な自殺の謎を追っていくうちにある女と出会うことになる。それと同時に、日本全土、世界全体を巻き込む重大な『事件』が発生する。世界の行く末やいかに。

今回紹介する作品は野崎まど原作小説、2019年10月から2020年1月までに放映されたアニメである『バビロン』についてを紹介していこう。アマゾンプライムにあるのでみんなも見よう。
私は「哲学的考察を深めてくれる素晴らしい傑作」であると思っている。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07YNBG66D/ref=atv_wl_hom_c_unkc_1_35

そして、今回は作品そのものは紹介しない。

作品の中で明示された一つの【答え】についての考察を行う。

今回の『バビロン』は視聴に値する価値がある作品だと思う。
しかしその結末や途中の展開は人に嫌悪感とモヤモヤとした気持ちを抱かせたのか、賛否両論の作品となっている。
だからこそたくさんの人にこの作品を先入観無しで見てもらいたいし、多くの人に考えてもらいたい深淵な哲学を秘めた作品であったと思うからこのレビューを書いている
そして今回のレビューはむしろ作品そのものより『哲学的な問い』に対する違和感を答えていこうと思う。

以下は完全にネタバレ注意だ。具体的に言えばこの作品で明示された答えが出てくる。
少し改行を置こう。


   ◆


   ◆


改行ココまで。

「善とは続くことであり、悪とは終わることである」

この作品で最後に明示された答えだ。

つまり「命が続く、種が存続する、受け継がれていく」という状態は善であり、逆に「命が終わる、絶滅する、消失して回復できなくなる」という状態は悪ということだ。

言われてみれば正しいと認識できるが、私個人としては「半分当たっているが、残り半分が足りてない」と主張したい。つまり間違った答えだ。

作中では「人は自分の意志に従って自殺を行うことができる権利を持つべきだ」という、いわゆる自殺法の是非を問う論争が世界中で沸き起こった。その経緯をここで全て述べるのは少々長くなりすぎるので作品のほうを見てもらいたい。元々ここはネタバレ前提のトピックであるしね。

話を戻そう。

まず「果たして自殺は本当に悪いことか?」という問いに対して私自身の明確な答えを打ち出さねばならない。

自殺そのものは手段でしかない」と私は思っている。
それと同時に「自分の意志で自分の生き方を決断する」ことはより尊重されるべきであると思っている。つまり必要とあらば自殺は肯定的手段とも成り得るだろう、というものだ。

でも上の方で述べた「善は継続、悪は終了」とは矛盾するのではないか?という問いもある。

そこを埋めるための私の答えはこれだ。


「苦しみを続けることは善ではなく、苦しみを終わらせることは善でもあり悪でもある」


この物語の最大の黒幕たる悪女『曲世愛』は特殊な能力を持つ女で、その声はどんな人間でも魅了し洗脳してしまえるし、姿形でさえ相手の望む理想の女に化けてしまえる。

そんな彼女はバビロン最終盤で悪辣な罠を発動させる。全世界が見届けているサミットの最中、「善は続けることである」という明確な答えを見出したアメリカ合衆国大統領を洗脳し自殺に追い込もうとする。
全世界にライブ中継されている中で最高権力者たる彼が自殺をしてしまえば世界中の世論は一気に「自殺肯定」の路線に持っていかれ、二度と元の世界に戻れなくなる。

FBIに身を置いた主人公正崎善はその最悪の展開を止めるべく、一つの決断を下す。大統領が飛び降り自殺をする前に、自身の手で大統領を公衆の面前で射殺した。
そして大統領が死した直後、物陰から現れた曲世愛は「いけないんだ、正崎さん」と嗜めるように嗤う。

つまり「大統領の命を終わらせた行為は、終わらせたので悪である」と主張しているのである。上で述べた理論の上ならたしかにそうだ。

だが、本当にそうか?

否だと私は思っている。
だからこそ「善とは続くことであり、悪とは終わることである」と同時に「苦しみを続けることは善ではなく、苦しみを終わらせることは善でもあり悪でもある」という答えを主張する。

上の場面でいうならば「大統領が飛び降り自殺をしようとする」ことは大統領にとっての苦しみだ。曲世愛という女によってもたらされた苦難だ。
大統領自身も自殺を選んでしまうことは不本意だ。だからこそ脱したいがもはや自分の意志ではどうにもならない状態。つまり苦しみの継続だ。これを善と主張できるのか?

そして大統領の状況を脱するには、もはや「自殺をする前に殺される」ことしか残されておらず、正崎善は苦渋の決断の先にその手段を選択した。つまり苦しみを終わらせた行為であり、苦しみの終了だ。これを悪と断罪できるのか?

善とは続くことだと、単純に定義してはならない。
たとえば病気で苦しみ続けること、呼吸困難な瀕死の状態で苦しみ続けること、自身の意志では起き上がることも身体を動かすこともできずに居続けること。そういった艱難辛苦たる状況に「善だからあり続けよ」と唱えるのは傲慢である。
苦しみを与え続けることが善とは言えないし、善足り得ないものである。

悪とは終わることだと、単純に定義してはならない。
たとえば不治の病を持つ者の最後を安らかなるものとするターミナルケア、ホスピタリティ、終末医療が存在する。苦しみを長引かせるよりも、苦しまず最期までの準備を終えてから見送ることもまた、終わりという悪でありながらも、善であると言える。杓子定規に続けることを善と定義づけてはならないのだ。
かといって完全に善というわけでもない。

当人の選択がとれない意識不明の場合にはどうか。いかに家族や親族が判断を委ねられるといっても究極には本人の意志とはそぐわない結果になるかもしれないし、ならないかもしれない。その答えは永遠に闇の中だが、可能性だけは残る。他者が他者の命を奪うことはすなわち「悪とは終わらせること」に他ならない。

されど悪であるが、どこまでも善に近い悪であると思いたい。他者を救うための行為が終わらせるか続けるかの違いだけで、善悪を定められてはならない。

バビロンという作品の意欲的な挑戦とは、わざと不完全な答えを出したこと。

結論としてはこうだ。

『バビロン』で明示された答え「善は続けることであり、悪は終わらせること」は、頭に苦痛をつけるだけで全てがひっくり返ってしまう。
なんて不完全な答えなんだと嘆きそうになるが、この作品はわざとそれをやっているかもしれないのだ。

少し深く考えれば反証が出てしまうこの「答え」が出たところでアニメ版バビロンは唐突に終わってしまう、いや終わらなかった。

本編では、正崎が曲世愛に銃を撃ったか撃たなかったかわからないまま場面が転換する。夏の日本の田舎、正崎が信頼のおける友人に預けた自身の息子と曲世愛が出会う場面を映す。物語はそこで唐突に限界を迎える。


「たとえ悪であっても、それを終わらせればその行為は善ではなくなりますよね?」
「物語が終わらずに続いてるならこれは善い物語ですよね?」
「物語を終わらせるなんて悪いことですよ?」


と、先に出された答えを裏切るジレンマを容赦なく叩きつけてくる。

『バビロン』という作品は、作品が終わっても視聴者に「正義とは、それが何なのか考え続けること」という課題を投げかけてくる作品であるのだ。

もしここで「悪が生き残ってしまったバッドエンドだよ、ひどい作品だった」と結論付けてしまうと、終わらせることとなる。だ。不思議な話だと思う。「バッドエンドなのに続いている」のだ。

だからこの作品を見たあなたもであろうとするなら、まだ何かが続いてることに気づかなければならない。


この物語は終わっていない、続いているから善のはずなのに、なぜ悪だと思うのだろう?

続いているのは苦しみだからだ。


これに気づくことができれば、ようやく本編で出された「答え」が不完全なものであったと理解できるようになるのだと、私は考察したい。

人生とは、最後の終わり方を決めるための旅路

自殺を推奨するつもりは断じて無い。飛び降りであれ飛び込みであれ首吊りであれ、社会的に他者の損害を被りその償いを背負わないのは道理に合わないからだ。
しかし自分で終わりを決めるという行為そのものは、手段として肯定されうるべきではあると思う。もし完全に封じてしまえば、それは他者による苦しみの続行の強制、自己による苦しみの終了の否定を招くことになりかねない。それは地獄の具現化だ。

だがそれと同時に、世の中の大抵の問題は自殺しなくても解決できる問題がたくさんあると信じている。

死ぬことに意義を見出してしまうのは、生きることがそれに優先されなくなってしまうからだ。病理や怪我や天災や事故など逃れられぬ災いの中でそのように結びついてしまうのは致し方ない。苦しみを続けるのは善とは言えない。
ただそれでも、日常に散らばる問題は人間関係であったり社会関係であったり経済関係であったり、一人で解決できないから解決が困難な問題であることがほとんどだろう。そしてそういった問題が自殺を引き起こすのも目に見えている。
だからこそ、そういった問題は誰かが手助けになれば、生きていても苦しみを終える善悪混在の答えを出せるのではないかと思う。
「誰も手助けできなかったから救えなかった、仕方のないこと、社会じゃよくあること」と結論づけて終わらせてしまうのであれば、悪であると思っている。

自身の終わり方を自身で決められれば、それは苦しみの緩和であるし、他者と相談できれば生きていても苦しみから逃れられると思う。
願わくば、社会が苦しみを緩和できる選択をできる場所にならんことを。


終わりに。

「人生とは、最後の終わり方を決めるための旅路である」というのは、私の心の中に刻む座右の銘だ。
その決断を他者に委ねる人生は苦しいものであると思うし、その決断が自分の理想通りであったのなら良き人生になれるものだと信じている。

自分の小説でも絶対使う予定だ。今回のところはここまでにしよう。

また会おう。

私は金の力で動く。