無題

[翻訳]もう「化学的不均衡」と呼ばせない【メンタルのお話】

◆本編


「自分が精神病を患うことは運命で決まっていた」。そう考えるだけで、私は数々の苦しみの原因や、さらには解決策までもを逃してきました。


抗うつ薬プロザックが発売された1986年、それは偶然にも私が生まれた年でした。そして私が初めて精神科医にかかったのは、2000年代初頭の10代のときで、当時は6種類もの抗うつ薬である、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(S.S.R.I)が市場に出回り、人々に知られるようになった時代でした。


S.S.R.IのひとつであるセルトラリンのテレビCMを語るうえで忘れてはいけないのが、鬱アニメのLittle Blobです。2001年5月の放映以来、すぐにポップカルチャーの象徴となりました。他のS.S.R.Iに関しては、私が子供のころ、母がサロンで髪を切ってもらっている間に、パラパラと読んだ女性雑誌によく広告が掲載されていました。そこには、パキシルが「あなたに合うか」を決める基準が書かれていました。私はそのとき、落ち込み、落ち着かず、摂食障害だった思春期の中で私を助けてくれる薬を、名前だけ知ることになりました。


S.S.R.Iや他の精神医薬品の主流化は、精神病に対する汚名を晴らせはしませんでしたが、精神病の蔓延を防いだことは確かです (2003年の調査では、小児および思春期の向精神薬の処方率だけでも、1980年代後半からほぼ3倍になったとの結果が得られました)。このことは、世間でもよく話題に上るようにもなりました。

精神病はもはや恥ずべき異常としてではなく、むしろ化学的に証明された先天的な病気(「化学的不均衡」として知られるようになった脳内のはたらきのこと)として議論を呼びました。

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精神科医療機関に出入りする10代の若者としては、この論理は非常に安心感をもたらしてくれるものでした。私は医療従事者がいる大家族の出でしたから、現代医学の科学的根拠は絶対だと信じて育ちました。

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自分に下された診断が、運命なのだと割り切れた瞬間に、これまで黒い犬のような憂鬱を払えなかった罪悪感も楽になりました。薬が思ったほど効かないときも、問題が脳内の神経伝達物質ではなく、不調で疲れ切っている自分自身にあるのだと、みっともない秘密をわざわざ明らかにする必要もありませんでした。

それから20年近く後のこと、アメリカにおけるメンタルケア事例の相次ぐ失敗に、私は怒りで震えました。窮屈で厳格な仕組みが多くの人々を見放し、私のようにある程度特権をもつ人ですら、ほとんど恩恵を受けることがありませんでした。

この問題の根底には、精神や神経の疾患に関して、「化学的不均衡」論がはびこっているという実態がありました。どう見ても問題を単純化し過ぎというものです。ハーバード大学のメディカル・スクールの史学者であるアン・ハリントンさんの最近の記事『マインド・フィクサーズ:精神疾患の生物学のための精神医学による苦悩多き研究』によると、「現代の精神医学における視野の狭さによって、いつも決まった診断ばかりで、ヒトの精神に関して十分理解しようとしていない」と述べられています。

精神科医は立派な医者です。診断を出し、薬を処方する能力を持っているはずです。しかし、最近では、多くの精神科医が、心理療法や「トークセラピー」と呼ばれる療法に費やす時間が、昔よりもはるかに少なくなっています。代わりに、単に患者と会ってすぐ処方箋を書くという傾向が強くなりました。その結果、「精神医学」は、多かれ少なかれ、ただの薬物管理業界と同義になってしまいました。

20代前半のとき、自分が持つ問題について話し合うことができるかどうか、新しい精神科医に尋ねてみたことがあります。彼女は私の保険を受け入れ、また新しい患者を受け入れるだけ器を持った女性で、私にとって唯一の、メンタルヘルスを約束してくれる人でした。私の言葉を聞くと、彼女は私が火星への共同ミッションを提案したかのように私を見てきました。 「ああ、なるほど」と彼女はうなずきながら、私の言っていることがやっとわかったように告げました。 「カウンセラーをつけてほしいのね」。

私が欲しかったもの。そして今でも願ってやまないもの。それは選択肢でした。

精神疾患が関係あるかはともかく、精神病理学において白か黒かの話をするときは、社会的および物質的状況の多大な心理的影響が無視されてしまっています。トランスジェネレーショナル・トラウマ(世代を超えて伝達されるトラウマ)や不十分な社会的支援、不公平の蔓延。これらは、基本的な生存権まで脅かしています。

精神疾患というものの概念について、もっと現実的かつ地道にアプローチしていけば、多くの人間の苦しみの潜在的な原因を検証することができ、また多くの困っている人々の道を切り開いていけることでしょう。

確かに、世間では薬を必要としている人ばかりだし、実際、薬から大いに恩恵を受けています。適切な薬によって、たしかに私も人生がよくなりました。しかしそんな個人個人の症状や状況に対しての理解はともかく、診断のあり方が固定化されてしまっていたり、精神薬がその場しのぎので処方されているといった面では、精神疾患の理解がさらに進まなくなってしまうのではないか。私はそのように思えてならず、未来を憂いています。

現在のこういった仕組みが期待するほどの物でもない、とまで言うつもりはありません。少なくとも、希望を追求している人たちにとっては、期待を寄せられる面もあるでしょう。私は30代に入りましたが、自分の状態に関係なく、アメリカのメンタルヘルスケア用の器具にしっかりお世話になっています。セラピストにも会っています(幸い、今は自腹でお願いできる立場になりました)。なにか問題が起きたときに解決策を見出し、ともに戦ってくれる人です。また、精神科医のかたと薬の管理もしていて、保険を利用しての薬の購入もしています。

さらに、日々の優先事項として、最低でも軽い運動はおこなっています。これは散歩でもジョギングでも、自転車通勤でもよしとしています。規則的にヨガも続けていますし、バランスの取れた食事と十分な睡眠をとり、よく活字を読んで、社会的なつながりを増やすために、そしてコミュニティを立ち上げていくために働いています。これらは、自分の感情面や心理面の健康を維持するために必要なことで、そして大事なことは「続ける」ことだと思い知りました。健康に「なりそうだからやる」のではない、「なるまでに必要だからやる」のだと。

私の心理面の経験を、ジェットコースターみたいに定められたものとして見るのではなく、人生の複雑な上がり下がりを反映してるのがメンタルヘルスなのだなーと思うようになりました。また、かつては絶対できないと思っていた、自分自身でコントロールができない気持ちを軽減するアプリを開発しました。今、生まれて初めてやっと、この世界の一員になれた気がします。


◆提供

※元の記事の著者:Kelli María Korducki

※元の記事↓↓↓

※トップ画像: Leigh Wells

※原文におけるリンク先は英文のサイトであるため、翻訳するにあたり日本語のサイトに差し替えています。


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