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石巻の一皇子神社:護良親王の謎

今回のフィールドワークは、
2回も予定を延期して行った日でした。

その日が、偶然にも一皇子神社の前夜祭だったとは・・・

もう魔鬼女とは関係ありませんが・・・(たぶん)

石巻に伝わる護良親王の伝説

牧山登山の入口が「一皇子神社」からになりますが、
車が数台停まっており、地元の方が参拝していました。

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タイミングよく神社が開いており、
参拝してからの牧山登山ができました。

なので、この日は、地元の方にいろいろ話しを
伺うこともできたので、本当にラッキーでした。

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例大祭は、今年はコロナのことがあり神輿は外には出さないと聞きました。
いつもは別の日程でしたが、コロナや天候のこともあり、
今年は、第3日曜、月曜にしたそうです。

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石巻の一皇子のことについて知っている方は、あまりいないと思います。

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初め、この話しを聞いた時、
霊山にいた義良親王(のりよししんのう)だと思っていました。

義良親王は、御醍醐天皇の後を引き継いだ後村上天皇のいなみ。
8番?目の子(とにかく子供が多い)

北畠顕家が保護しており、陸奥太守とされ多賀国府~霊山へ移し、
国司館を設置。

しかし、石巻の一皇子は、護良親王(もりなが・もりよし)と伝わります。

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まず、簡単に歴史を。

一皇子神社は、南北朝の時代。
南朝と北朝と分かれた時(1336年~1329年の57年間)で、
南朝側の「護良親王」を祀っています。

南朝側・・・御醍醐天皇=吉野を拠点(北畠顕家ら)
北朝側・・・光明天皇=京都を拠点(足利尊氏ら)

護良親王は、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒。
征夷大将軍となりますが、足利尊氏に嫌われており、
(武士好きで足利尊氏を寵愛した父とはすれ違いが多く)
後に解任され、やがて政治に失脚。

足利直義の命を受けた淵辺義博(ふちべよしひろ)により殺害される。

淵辺氏は、相模国の地頭。(武蔵七党の支流)

しかし、護良親王は生きていた説。
これが石巻に関係するらしい。

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石巻湊南朝史跡の石碑

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一皇子は生きていた?

一皇子の一は、長男か第一番目の意味。
一皇子は各地にあるそうです。

のの岳にも一皇子宮がありました。(今もあるのか不明)

地元の方の話しから、こんな言い伝えが。

・7人の親王の大納言がやってきて、今もその姓名が残っていると。

・一皇子神社の地名が「吉野町」と「御所入」。(赤線)

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・神社の神輿は通常の四ではなく、六角(八角もあり?)
天皇の意味があって四角ではないとの事。

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神輿の日と三日月の家紋が気になります。元々は日月紋が皇室の家紋だったそうですが実際は日を金、月を銀で表すが、こちらは三日月。

太陽と月(星)を現しているようです。

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最も興味深い話しが、お墓です。

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神社のすぐ裏手に盛土があり、
それが護良親王のお墓と伝わりますが、調査していないので不明です。

(必ず現地の方に案内してもらってください。絶対、一人ではいかないで下さい)

それが、すごい地層の側になんですね~。
あえてここに祀る理由は、岩盤にある?

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松島などは縄文~弥生・古墳時代の複合遺跡として洞窟が多いです。
浸食してできた岩窟を利用して埋葬されていたことがありますので、それに似ていると思います。

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昔は、もっと海が近くにあったので
あえてこの岩場に祀る意味があったとすれば、相当古いものだと思います。

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昔、この盛土を掘っていたら「勾玉」が発見されたそうです。
しかし、地元の警察により掘るのをやめるよう言われ中止になったという。

勾玉が見つかるというのは、一般人の葬り方ではないので、
高貴な人であったと想像します。もしくは、遺品だけ埋めたとか。

もうひとつ、メンバーが、以前、
地元の方からこんなことを聞いたと。

明治時代、宮内庁がやってきた時、当時の村長が案内したそうです。
その時、宮内庁から
「本来の場所ではない所に祀るな」といったことを言われたそうです。

明治政府は、明治天皇を現人神として認識させるために、
全国各地に巡幸しています。

太平洋側の特に、宮城・岩手では明治天皇が休憩したというのでその石碑や
明治天皇がきた、といった話がよくあります。

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例:岩手県一関真柴・・・大武丸の首を洗ったと伝わる井戸のそばに明治天皇が小休止した碑。寄贈したのは、「大正六年八月「貴族院議員錦鶏間祇候俸正四位勲二等石井省一郎」「真瀧村青年会建」とあり。

※貴族議員・・・明治憲法下の日本における帝国議会の上院。

東北各地に逃れて来た皇族の話しが多い地なので、
明治政府は、天皇家や皇室に関わってきた一族がどのようにして東北各地に伝わっているのかを調査していたようです。

悪路王伝承のある一関にも、明治天皇の石碑があることを考えれば、蝦夷がいた牧山との関連もあると思います。

出羽三山の蜂子皇子もそうで、実際に、天皇家に関わる一族が逃れていることは、確かなのでしょう。(その保護をしたのは熊野修験者たち)

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おそらく、幕府が終わり天皇家が実権を握ることになった場合、
(王政復古の大号令)
東北に逃れた天皇家の末裔たちが、その事について正統性を糺されることに都合が悪いこともあり、調査にきていたと考えられます。
先手をうつ・・・という事ですね。

何らかの痕跡があって一皇子として祀っていると思いますので、
真相は謎のままですが、

敗者の歴史は、熊野信仰があり、
勝者の歴史には、八幡神がある
ことを知りました。

勝者の歴史と敗者の歴史が符号する地が、石巻だと思う由縁です。

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吉野の南朝も熊野の力があります。
かつては、天武天皇が逃れた所でもあります。

御醍醐天皇が吉野へ逃れた時、
狩猟を生業とする武術にすぐれたマタギらと関わっていたそうです。

マタギは、免許をもっていれば、
峠を越えて狩猟ができたので、各地の藩の情報を
入手することができ、自由に峠を越えることができます。

スパイ活動をしていたこともあるのです。

実際、甲州のマタギは隠密をつとめており、
徳川家康の隠密としていました。

魔鬼女と南朝の共通点は?

あえて繋いでみれば、
護良親王を殺害した淵辺氏の伝説に、ハイヌヴェレがありました。

淵辺氏は親王を哀れみ、逃して石巻へ送ったと。

このことが妻子に影響が及ぶと考えて、妻子と分かれたという。
分かれた橋が「別れ橋」と言われ、相模原と町田市の境界にあるそうです。

またこの川は、龍池があるといわれ、龍が住む池で村を荒らすため、
目を弓矢で射り、龍の体を3つに分けたという。

それぞれ、頭、胴、尾とつくお寺があるそうです。
現存するのは龍胴寺のみ。

護良親王は現在、鎌倉宮に祀られています。
1869年、明治天皇によって建立されたそうです。

最終的に、明治政府は、南朝を正統な天皇家と認めたそうですが、北朝側では、神器を奪われたと訴えているとか。いろいろあります。

今回のタイミングと、御祭で開いていたことを考えると、
護良親王に関わってきた大納言や公家たちの
末裔が伝えたかったのだと思います。

石巻の深~い歴史探訪でした。

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