見出し画像

延久荘園整理考を読んだまとめ

延久荘園整理令考 槇道雄

評価されている点


・初めて記録荘園券契所が設置され、これまでの整理令と比較して、かなり強力に荘園整理  

 が実施され、そのため相当の成果が上がったものと評価されている。

・「院庁政権」の基礎となる院領荘園の増大という、新たな経済的体制の形成をした点。

疑問点


・同じ年のうちにわずか1か月を隔てて、二回も同様な荘園整理令を発することが実際 にありえたのか。

・荘園整理令を発して8、9か月ほどもたってから、記録所を創設することがあり得たのか。

・延久の荘園整理令の従来の解釈

延久の荘園整理理の発令日


『扶桑略記』2月23日『百練抄』2月23日『一代要記』正月23日『皇代暦』正月23日

『平安遺文』2月22日 3月23日 とある

通説では、『平安遺文』の文書史料から発令日は、2月22日と3月23日であり、『扶桑略記』と『百練抄』に記されている2月23日というのは2月22日の誤りであったとされている。
また、『平安遺文』の延久2年7月24日の文書より2月22日説が有力となる。ところが、「伊賀国庁宣」を根拠に3月23日に発せられたとする見解もあり、2度にわたり発せられたと捉えられている。

森田悌氏 2月22日は大宰府宛てで3月23日が伊賀国宛てであり内容は同様。

延久の荘園整理令の内容


大宰府符によって出された国司庁宣の内容がそのまま延久の荘園整理令の内容なのか疑う必要がある。

・ここに出てくる「宣旨」とは、延久元年4月の「大宰府符」を指していると考えられる。

したがって、延久元年8月23日に筑前国嘉麻郡司のもとに到来した「国司庁宣」の内容は、同年4月16日の「大宰府符」の内容をそのままで伝達したとか解釈できる。

・筑前国司庁宣の内容


神社仏寺院宮王臣家の諸荘園、停止命令の出されている寛徳2年以後の新立荘園、荘園領主側がやせ地を嫌って公田と相博した肥地、荘園領主側に駆りたてられて寄人とされた平民の公田、定まった坪付帳の存在しない荘園、諸荘園に存在するところの荘園領主側の田畠の総数、の六項目を注進せよというもの。

・「神社仏寺院宮王臣家の諸荘園」で始まっているように、ここでは決してその諸荘園の停止を命じてはいない。

・「諸荘園所在領主田畠惣数」は、「諸荘園所在」の「領主」の「田畠惣数」と解釈するべきで、竹内氏などのように、諸荘園所在の領主と田畠惣数と2分しない。


この内容から、「大宰府符」は荘園整理令実施の下達を直接的にも目的として発せられたものではなく、その役割は中央での荘園整理の準備作業の一環であったといえる。その準備作業を命じたのは、延久元年2月22日の「官符」であり、そのため「官符」の内容も同様であったと解釈できる。すなわち2月22日の「官符」の命令を大宰府より下された筑前国司は、その具体的執行を現地に命じたことが知られる。

・延久元年閏十月十一日付「伊賀国司庁宣」内容


寛徳二年以後の新立荘園の停止、寛徳二年以前からの荘園でも券契が不明分で国務の妨げのあるものは停止、この2点が五畿七道諸国に向けて下された「官符」の内容。


これは、2月22日の「官符」と違い荘園の実態調査を命じたものではなく、明確な形での荘園整理の実行を命じている。2月22日の場合でも、中央政府の意図を国司は感知できたであろうが本格的な延久荘園令の発令日は、延久元年3月23日とみてよい。

記録所の設置


記録所の設置に関しては、『百練抄』に唯一記載されていて史料によると閏2月11日設置と記載されている。しかし、延久元年の閏月は10月。だが記録所の設置が10月というのは遅すぎる。そのことから「閏」は「同」の誤写であり、「同二月十一日」と推定することができる。このことは、記録所の職員である、上卿・弁・寄人などの任命過程やその事始の儀の開始過程からも推定できる。


また、延久元年十月一日付「官宣旨」の内容から延久元年閏十月十一日付の「伊賀国司庁宣」よりも一か月以上も前から中央政府が免田の本公験の提出を要求していることが分かる。

このことからも、当時すでに何らかの荘園整理に関する作業が、中央政府によって進行されていたことが分かる。以上の点からも、閏が正しく2月が間違えという説ではなく、「閏」が「同」の誤写であり2月11日に記録所が設置されたということができる。

結論


・延久元年正月23日に整理令に関する指令が発令されたことは資料不足のため容認できない。

・平安遺文の記録にある官符の内容は注進を命じたものであり、荘園整理を実施せよとの指令ではなかった。したがって、この2月22日の「官符」のみを根拠として、この日に荘園整理令が発せられた説は成立しない。「官符」の目的は中央での荘園整理のための諸荘園の現状把握だった。

・『扶桑略記』と『百練抄』によれば、2月22日の「官符」とともに、荘園整理の方針は、少なくとも国司たちに感知されていたことが想定される。

・平安遺文の出てくる、「伊賀国司宣旨」から3月23日の「官符」は、正しく本格的な延久整理令といってよいかもしれない

・『百練抄』から判断すれば、記録所の設置は延久元年2月11日であったとみてよい。

・2月11日 記録所の活動開始

・2月22日 諸国の荘園に実態調査を命じる「官符」が下される。

・3月23日 荘園整理の実施を告げる「官符」が  下される。

このことから荘園整理令が2度にわたり発令されたとする通説は間違い。

・荘園整理の基準自体は、天喜荘園整理令を継承したものでる。

・単に諸国の国司らに荘園整理を命じるような性格のものでなく、あくまで中央での荘園整理を目指して発せられたため、その何度かの準備指令が、本質。そのため延久の荘園整理令がいつ発せられたかの議論は、ほとんど無意味となってしまう。

私見


・延久の荘園整理令の発せられた日付については、注進せよという内容の2月22日の「官符」ではなく実施内容が記されている3月23日とする筆者の意見に賛成。

・筆者がいうように、閏十月一日付「官宣旨」があることから閏十月に記録所が設置されたという説は間違いだと思った。

・延久の荘園整理令は、段階的に行われたもので明確にこの日に実施というわけでないことが分かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?