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SOMEDAY

僕が音楽を知ったのは、小学校4年生、10歳の頃だった。1980年、佐野元春さんがデビューした年だったと思う。

当時、僕は、鍵っ子の一人っ子だったので、学校が終わると母の実家、下宿屋を営んでいた「じいちゃんち」に行き、母がパートの仕事を終え迎えに来るのを待つ毎日だった。

じいちゃんちには従兄弟のお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて飽きることは無かったどころか、すごく楽しかった思い出がある。

それにも増して、大学生相手の下宿屋を営んでいたじいちゃんちには、大学生のお兄ちゃんたちがたくさんいた。行く部屋行く部屋でお兄ちゃんたちの匂いは違ったし、みんな性格は違う。それでも、たいがいはタバコを吸いながら、こたつの天板を裏返した緑色の台で、麻雀を大学生のお兄ちゃんたちがやっているのをずっと見ていた。

「丸い絵が描いてあるのをこのお兄ちゃんは持ってる!!」「赤い字で”ちゅう”って書いてあるやつをこのお兄ちゃんは持ってる!!」と言うたびに、笑いながら頭を小突かれた。それがうれしくて、またお兄ちゃんの後ろにまわって牌をのぞき見しては怒られていた。

その時にお兄ちゃんたちがこたつの傍らに置いていたものは、ラジオだった。まだダブルデッキなんてなかった頃のラジオ、ラジカセ。

お兄ちゃんたちの部屋ではYMOのライディーンや、佐野元春のアンジェリーナが流れていた。「ライディーンのこの音は馬の蹄の音なんだぞ!すごいだろ!」と言われて、よくわかんなかったけど、「すげ~」って言ったような気がする。

學校が休みの日の前なんて、おじいちゃんちに泊まると言いながら、下宿のお兄ちゃんたちの部屋に小学生の僕は混ぜてもらっていた。

夜中の1時を過ぎると、ラジオからはビタースウィートサンバのテンポいい曲が流れてくる。オールナイトニッポンだ。僕の記憶では、中島みゆきさんと、鶴光さんのHな話が頭に残っている。ラジオの原体験も、下宿屋だった。

しかし、5年生になると僕は郊外に家を建てた両親に伴い、その下宿屋と別れを告げた。でも、ラジオと音楽は僕の大事な大人のアイテムになった。

夜更かしをすることが「かっこいい」と思い込み、歌謡曲よりも佐野元春を聴くことで、田舎に越してきた自分を地元民と差別化していたのだと思う。少し早い中二病だったのだろう。

今、52歳になって、いろんな経験もしてきた。取返しがつかないこともやってきた。振り返れば、ダメなことばっかりだったけれど、ラジオと音楽に出会えたことは神様に感謝している。

佐野元春さんの音楽は、カフェボヘミアあたりぐらいから僕の中でフェードアウトしていったのだけれども、数年前に友人宅で、「よし!あえてベタな曲を聴いてみよう」と言う話になって、ビリージョエルの「ピアノマン」と、佐野元春の「SOMEDAY」を聴いてみた。

なんだろう。なんだろうね。「売れた曲は聴かないぞ」なんて突っ張っていた自分が崩壊して、歳をとった自分の心に突き刺さり、なにか麻酔でも打たれたように涙が止まらなかった。どうしようも無いぐらい、泣けた。

「つまらない大人にはなりたくない」という佐野元春さんの「ガラスのジェネレーション」。

ある意味、僕らはこの言葉に縛られてきた。

そして、すっかり「つまらない大人」になってしまった僕は、SOMEDAYを聴いて泣いたのだ。

よく意味は分からない。でも、音楽なんて、そんなものだ。意味なんて分からないけど、麻酔のようにどうしようもなく鼻水と涙が出てくる。

52歳だからだ。佐野元春さん、当時大学生だったお兄ちゃんたち、そして部屋の片隅で陽気な声を聴かせてくれたラジオありがとう。

ぼくは、みごとに「つまらない大人」になったよ。


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