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想いが強い程に訴える時の力加減が難しい。

個人的に思うことなんだけど。

「寛容でなくてはならないという不寛容さ」が「アレ」と似てるかも。

最近よく触れる事の1つに、多様性が叫ばれる昨今「寛容でなくてはならないという不寛容さ」を見かける機会があって気になるという話がありますが、実は今日、それが以前から気になっていたもう1つの話と似た構図があるのでは?と思ったので、それを書いておこうと思う。

抵抗を覚えるタイプのフェミニストさん。

以前から気になっていたもう1つの話というのは、フェミニストと呼ばれる方の中に時々いる、本来は同志たりえる方々からも敬遠されがちな圧で主張する人です。

※主張されてる話はとても共感できるのに、どうも寄り添い難い人、攻撃的な空気で苦手に感じるタイプのフェミニストさん、いたりしますよね?

そのケースに、寛容でなくてはならないという不寛容さと似た構図を感じたのです。

具体的には、フェミニストの方が主張するのは基本的に、レッテル貼りとかカテゴライズによる先入観や固定観念の押し付による抑圧だったり、差別に対する解放運動というか、誤った固定観念の押し付けやハラスメントの圧に対して声を上げる行為だと思っているんだけど、どうにも敬遠したくなってしまう空気を感じる方の場合は、その抗議が声を挙げない弱者(似た条件・立場にある同士)に対しても行われて、「あなた達も強制されたり抑圧されたりしてる事に対して声を上げるべき!」と押し付けるような圧を感じさせる時かなと思ったんだよね。

押し付けるな決め付けるな抑圧するなといいながら、「押し付けられたまま黙ってるな決め付けに抗議しろ抑圧に反発しろ声を上げろーっ!」という押し付けを感じる時じゃないか?って(汗)

これ、どこか,似てるなって。

想いの強さが強硬的な発信になる。

それでさらに思ったんですよね。
どちらもそうだけど、当てはまる時って物凄く当事者意識を持って、真剣に向き合ってたり、頑張ってる方で、中々変えられないモノに対峙しながら強い想いを持ってる方だと思うんですよね。

ボク自身よくある、よくあった事なんだけど、中々伝わらなかったり、分かって貰えない時のジレンマとか、モヤモヤとか、やるせなさとかあると、もっと伝えたいという気持ちから圧や言葉尻が強くなってしまったりするから、そういうのかなって。

気持ちが強いほど、想いが強い程に、気を付けないとなーと自戒したって話でした。

過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。