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明るい闇のなかで

暫くの間、ぼうっと過ごしていた。ごちゃごちゃとずっと何かを考えていたような気もするけれど、結局まとまらないまま、頭の中をふわふわと移動している。頭の中が空っぽの気体で満たされて、何かを考えようとする身体を拒んでいるようにも思える。

どうしても動く気になれなくて、いつもより早めの時間に布団に入った。
目を瞑っていたら、耳元で沢山の人が何の繋がりもないことを、ひたすらに話している声が聞こえた。
はいはい、例の金縛りですね、と余裕ぶっていたものの、身体が自由に動くとわかった瞬間、自分でも笑ってしまうくらい狼狽した。
これは金縛りだから許していた状態であって、身体が動いてしまうのであればそれはもう金縛り以外の何かで、その何かは完全に私にとって未知のものなのだった。未知は、恐ろしい。
飛び起きたら、足元で寝ていた猫も一緒に飛び起きた。その後に、物凄く迷惑そうな顔をした。

目を開けても、ベッドから出ても、話し声は止まなかった。聞き取ろうとすると、どうやらそれは会話ではなく、ひとつの塊みたいな言葉を、各々が投げているだけだった。湖に向かって石を投げているような身勝手さだった。湖は私だった。沢山の人が投げるので、水面には波紋がいくつもいくつもできた。
投げられた石もまた、完全に無視しきれない親しさがあった。聞き続けていると、石のひとつひとつが私の意思であるように思えた。実際、私が無意識に頭の中で考えていることが、他人の声によって再生されているだけのような気がした。
空っぽの気体だと思っていたものが、個体になって身に降り注いでくる。個体は、重い。
降り注いでくる石が多ければ、私はいとも簡単に沈んでしまう。

ひと通りの抵抗は全て徒労に終わった。なす術がないとは、まさにこのことだと思った。

自室に戻って、アリス=紗良・オットの、ナイトフォールを流した。頭の中で流れているもう一つの音楽と呼べなくもない何かは、相変わらず喧しかったけれど、少しなりを潜めた気がした。そう思いたかった。気の所為でもなんでもよかった。この場合、私の感じることが全てなのだから。

デスクの定位置にある、長田弘の全詩集を手に取る。もう何周したかわからないその本の表紙を撫でる。それだけで心に凪が訪れる。いつだってその一瞬だけは、とても静かな気持ちになれる。
一日、見開き一頁ずつ。贅沢に、ゆっくり読むのがいつの間にか習慣になっていた。栞紐が挟んである箇所が、その日の私の一日を締める詩になる。当たると評判の占いなんかよりずっと、心の支えになった。
頁をそっと開く。ちょうど私が好きな、月の光が流れている。

冬の夜の藍の空、という詩だった。
最後はこう締め括られていた。

橙色のアルデバランが、
オリオン座のペテルギウスが、
シリウスが、瞬きながら、言う。
明るさに、人は簡単に目を塞がれる。
夜の暗さを見つめられるようになるには、
明るさの外に身を置かなければならない、と。

この詩をこの夜に読んだことも、ちょうど月の光が流れていたことも、すべてが偶然だった。偶然は、美しい。
詩を読んでいる時だけ、頭の中の人々は石を投げるのをやめて、じっと佇んでいた。本を閉じると、我に帰ったように言葉という石を投げ始めて、静けさは何処かへいってしまった。もうそれでいいと思った。潔くて、どこか爽やかな気分だった。これを人々は諦念と名付けたのかもしれない。

声は大きくなることも小さくなることもなく、朝も夜も響き続けた。たまに止んだ。止んだ、と気づいた途端、また喧騒の中へ引き戻された。
気晴らしで朝まで酒を飲んだり、煙草を吸った。こうしてあらゆる行動に言い訳しようとしている自分に気がつくと、酷く嫌気がさした。好きでしていることにも、変な意味付けをしてしまいそうで怖かった。
頭の中では波紋と波紋が衝突して、奇妙な模様を生み出している。もしかしたら、本当に少しだけ、疲れているのかもしれない。

パソコンを起動するのも面倒だったので、携帯で淡々と文字を打っていく。
こんなに簡単に文が生成されていくと、全てが嘘で、幻で、勘違いで、他人事のように感じられた。実際そうなのかもしれなかった。
嘘か本当かなんて、この際どうでもいいのではないだろうか。自分のことを何も信用していない人間が書いた、どこにも真実がない物語ということで、いいんじゃないだろうか。
義務でも使命でも仕事でもなんでもない駄文が、こうしてまた増えた。

無人島にバレーボールだけ持っていって、そのボールにウィルソンと名付けて、彼とだけ対話をする時間が、私にも必要な気がする。
キャストアウェイのトムハンクスのように、4年も生き延びることは絶対にできない。信じられないくらい呆気なく死んでしまうだろう。
そして死ぬ間際に、ウィルソンに遺す言葉はこうだ。

明るさに、人は簡単に目を塞がれる。
夜の暗さを見つめられるようになるには、
明るさの外に身を置かなければならない。

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